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'''オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン'''(Auguste Frédéric Louis Viesse de Marmont [[1774年]][[7月20日]] - [[1852年]][[3月22日]])は、フランスの軍人、貴族、政治家。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の下級士官時代からの腹心の部下だったが、[[1814年]]に連合軍が[[パリ]]に迫る絶望的な状況のなか寝返り、[[フランス]]を降伏に追い込んだ。ナポレオンは彼を許さず回想録などで非難し続けたが、遺書では彼を許した。
'''オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン'''(Auguste Frédéric Louis Viesse de Marmont [[1774年]][[7月20日]] - [[1852年]][[3月22日]])は、フランスの軍人、貴族、政治家。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の下級士官時代からの腹心の部下だったが、[[1814年]]に連合軍が[[パリ]]に迫る絶望的な状況のなか寝返り、[[フランス]]を降伏に追い込んだ。ナポレオンは彼を許さず回想録などで非難し続けたが、遺書では彼を許した。


小貴族の家柄出身で父親も軍人だった。1793年の[[トゥーロン攻囲戦]]でナポレオンの副官を務めた。その後、[[エジプト・シリア戦役|エジプト戦役]]では1798年の[[ピラミッドの戦い]]で活躍した。[[1799年]]の[[ブリュメールのクーデタ]]に参加、[[1800年]]の[[マレンゴの戦い]]でも武勲を立てた。しかし1804年には元帥昇任を果たせなかった。[[1805年]]の[[ウルムの戦い]]に参加、その後[[ダルマチア]]地方を征服した。[[1808年]]、[[ドゥブロヴニク|ラグーザ]]公爵に叙される。1809年7月の[[ヴァグラムの戦い]]で戦功を立てて会戦直後に元帥に昇任した。[[半島戦争]]に派遣され、[[ポルトガル]]に侵攻したが、[[サラマンカの戦い]]で[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]に敗れて重傷を負った。[[1812年ロシア戦役]]では撤退するフランス軍の援護を担当した。[[1814年]]、パリ防衛を任されていたが[[ジョゼフ・ボナパルト]]の許可を得て[[アレクサンドル1世]]と交渉、パリ開城を行った。王政復古後は、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]によって近衛部隊の参謀総長となったが目立った働きはなかった。[[1830年]]の[[フランス7月革命|7月革命]]でも叛乱鎮圧に失敗、[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]とともに亡命した。1852年にヴェネチアで没した><ref>{{cite journal|和書|author=金柿宏典|authorlink=金柿宏典|title=パリ -誕生から現代まで- |date= |publisher=[[福岡大学]] |journal=福岡大学人文論叢 |volume=40 |issue=1 |naid= |page=83 }}</ref>。
小貴族の家柄出身で父親も軍人だった。1793年の[[トゥーロン攻囲戦]]でナポレオンの副官を務めた。その後、[[エジプト・シリア戦役|エジプト戦役]]では1798年の[[ピラミッドの戦い]]で活躍した。[[1799年]]の[[ブリュメールのクーデタ]]に参加、[[1800年]]の[[マレンゴの戦い]]でも武勲を立てた。しかし1804年には元帥昇任を果たせなかった。[[1805年]]の[[ウルムの戦い]]に参加、その後[[ダルマチア]]地方を征服した。[[1808年]]、[[ドゥブロヴニク|ラグーザ]]公爵に叙される。1809年7月の[[ヴァグラムの戦い]]で戦功を立てて会戦直後に元帥に昇任した。[[半島戦争]]に派遣され、[[ポルトガル]]に侵攻したが、[[サラマンカの戦い]]で[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]に敗れて重傷を負った。[[1812年ロシア戦役]]では撤退するフランス軍の援護を担当した。[[1814年]]、パリ防衛を任されていたが[[ジョゼフ・ボナパルト]]の許可を得て[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]と交渉、パリ開城を行った。王政復古後は、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]によって近衛部隊の参謀総長となったが目立った働きはなかった。[[1830年]]の[[フランス7月革命|7月革命]]でも叛乱鎮圧に失敗、[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]]とともに亡命した。1852年にヴェネチアで没した><ref>{{cite journal|和書|author=金柿宏典|authorlink=金柿宏典|title=パリ -誕生から現代まで- |date= |publisher=[[福岡大学]] |journal=福岡大学人文論叢 |volume=40 |issue=1 |naid= |page=83 }}</ref>。


砲兵将校としても有名であり、王政時代末期に制式された[[グリボーバル・システム]]の後継として、[[フランス革命戦争]]での経験や戦訓を反映させて軽量化などの改良を図った[[共和暦11年システム]]の制定に尽力している。なお、共和暦11年とは[[フランス革命暦]]11年で1803年のことである。
砲兵将校としても有名であり、王政時代末期に制式された[[グリボーバル・システム]]の後継として、[[フランス革命戦争]]での経験や戦訓を反映させて軽量化などの改良を図った[[共和暦11年システム]]の制定に尽力している。なお、共和暦11年とは[[フランス革命暦]]11年で1803年のことである。

2021年6月13日 (日) 07:56時点における版

オーギュスト・マルモン
Auguste de Marmont
1774年7月20日 - 1852年3月22日
軍歴 1789年 - 1830年
最終階級 元帥
指揮 近衛師団参謀長
戦闘

フランス革命戦争
ナポレオン戦争

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オギュスト・フレデリク・ルイ・ヴィエス・ド・マルモン(Auguste Frédéric Louis Viesse de Marmont 1774年7月20日 - 1852年3月22日)は、フランスの軍人、貴族、政治家。ナポレオン1世の下級士官時代からの腹心の部下だったが、1814年に連合軍がパリに迫る絶望的な状況のなか寝返り、フランスを降伏に追い込んだ。ナポレオンは彼を許さず回想録などで非難し続けたが、遺書では彼を許した。

小貴族の家柄出身で父親も軍人だった。1793年のトゥーロン攻囲戦でナポレオンの副官を務めた。その後、エジプト戦役では1798年のピラミッドの戦いで活躍した。1799年ブリュメールのクーデタに参加、1800年マレンゴの戦いでも武勲を立てた。しかし1804年には元帥昇任を果たせなかった。1805年ウルムの戦いに参加、その後ダルマチア地方を征服した。1808年ラグーザ公爵に叙される。1809年7月のヴァグラムの戦いで戦功を立てて会戦直後に元帥に昇任した。半島戦争に派遣され、ポルトガルに侵攻したが、サラマンカの戦いウェリントン公爵に敗れて重傷を負った。1812年ロシア戦役では撤退するフランス軍の援護を担当した。1814年、パリ防衛を任されていたがジョゼフ・ボナパルトの許可を得てアレクサンドル1世と交渉、パリ開城を行った。王政復古後は、ルイ18世によって近衛部隊の参謀総長となったが目立った働きはなかった。1830年7月革命でも叛乱鎮圧に失敗、シャルル10世とともに亡命した。1852年にヴェネチアで没した>[1]

砲兵将校としても有名であり、王政時代末期に制式されたグリボーバル・システムの後継として、フランス革命戦争での経験や戦訓を反映させて軽量化などの改良を図った共和暦11年システムの制定に尽力している。なお、共和暦11年とはフランス革命暦11年で1803年のことである。

略歴

脚注

  1. ^ 金柿宏典「パリ -誕生から現代まで-」『福岡大学人文論叢』第40巻第1号、福岡大学、83頁。 

外部リンク