「エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)」の版間の差分

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1822年、父親の従弟に当たる[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア君主一覧|皇帝]]の弟ミハイル大公と婚約。彼女は、15歳という年齢にしては大人びて特段に優れた少女であるといわれていた。ミハイルは、彼女の美貌と釣り合いのとれた人格に明らかに感銘を受け、彼女は会話を交わした人々を魅了したという。1823年、結婚に先立って[[正教会|正教]]に改宗し、エレナ・パヴロヴナと改名。1824年2月20日、[[サンクトペテルブルク]]で2人は結婚し、ミハイロフスキー宮殿に住んだ。皇太后[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]が1828年に亡くなると、皇太后の愛した[[パヴロフスク]]宮殿は、しばしば訪問していたミハイル夫妻のものとなった。2人の結婚は幸福なものではなかった。ミハイルは己の情熱を軍務にのみ注ぎ、エレナを放任していた。それにもかかわらず、夫妻には5人の子供が生まれた。
1822年、父親の従弟に当たる[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア君主一覧|皇帝]]の弟ミハイル大公と婚約。彼女は、15歳という年齢にしては大人びて特段に優れた少女であるといわれていた。ミハイルは、彼女の美貌と釣り合いのとれた人格に明らかに感銘を受け、彼女は会話を交わした人々を魅了したという。1823年、結婚に先立って[[正教会|正教]]に改宗し、エレナ・パヴロヴナと改名。1824年2月20日、[[サンクトペテルブルク]]で2人は結婚し、ミハイロフスキー宮殿に住んだ。皇太后[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]が1828年に亡くなると、皇太后の愛した[[パヴロフスク]]宮殿は、しばしば訪問していたミハイル夫妻のものとなった。2人の結婚は幸福なものではなかった。ミハイルは己の情熱を軍務にのみ注ぎ、エレナを放任していた。それにもかかわらず、夫妻には5人の子供が生まれた。


エレナは義兄[[アレクサンドル1世]]夫妻と親しかった。義理の甥アレクサンドル(のちの皇帝[[アレクサンドル2世]])の妃で、内向的な[[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|マリア・アレクサンドロヴナ]]とも瞬く間にうち解け、友人となった。1849年にミハイルと死別すると、彼女はいくつもの慈善団体や芸術家たちの支援者となった。エレナは[[ロシア音楽協会]]および[[サンクトペテルブルク音楽院]]の設立者の一人であり、ロシアでの[[赤十字社]]の前身となった尼僧による看護会を設立した。
エレナは義兄[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]夫妻と親しかった。義理の甥アレクサンドル(のちの皇帝[[アレクサンドル2世]])の妃で、内向的な[[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|マリア・アレクサンドロヴナ]]とも瞬く間にうち解け、友人となった。1849年にミハイルと死別すると、彼女はいくつもの慈善団体や芸術家たちの支援者となった。エレナは[[ロシア音楽協会]]および[[サンクトペテルブルク音楽院]]の設立者の一人であり、ロシアでの[[赤十字社]]の前身となった尼僧による看護会を設立した。


== 子女 ==
== 子女 ==

2021年6月13日 (日) 07:59時点における版

エレナ・パヴロヴナ
Елена Павловна
ヴュルテンベルク家
エレナ・パヴロヴナと長女マリア(カール・ブリューロフ画)

出生 (1807-01-09) 1807年1月9日
ヴュルテンベルク王国 シュトゥットガルト
死去 (1873-02-02) 1873年2月2日(66歳没)
ヴュルテンベルク王国 シュトゥットガルト
配偶者 ミハイル・パヴロヴィチ大公
子女 一覧参照
父親 ヴュルテンベルク王子パウル
母親 カタリーナ・シャルロッテ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン
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エレナ・パヴロヴナロシア語: Елена Павловна, ラテン文字転写: Elena Pavlovna, 1807年1月9日 - 1873年2月2日)は、ロシアの皇族、ロシア大公妃パーヴェル1世の四男ミハイル・パヴロヴィチ大公の妻。

生涯

ヴュルテンベルクフリードリヒ1世の次男パウル王子と、その妃であるカタリーナ・シャルロッテ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼンの長女として、シュトゥットガルトで生まれた。ドイツ語名はフリーデリケ・シャルロッテ・マリー(Friederike Charlotte Marie Prinzessin von Württemberg)。子供の頃、父に連れられ妹パウリーネパリで暮らした。彼女らの一家は、他の王家と比べれば格段に堅苦しさがなく、彼女もパリで知識階級の人々から教育を受けた。

1822年、父親の従弟に当たるロシア皇帝の弟ミハイル大公と婚約。彼女は、15歳という年齢にしては大人びて特段に優れた少女であるといわれていた。ミハイルは、彼女の美貌と釣り合いのとれた人格に明らかに感銘を受け、彼女は会話を交わした人々を魅了したという。1823年、結婚に先立って正教に改宗し、エレナ・パヴロヴナと改名。1824年2月20日、サンクトペテルブルクで2人は結婚し、ミハイロフスキー宮殿に住んだ。皇太后マリア・フョードロヴナが1828年に亡くなると、皇太后の愛したパヴロフスク宮殿は、しばしば訪問していたミハイル夫妻のものとなった。2人の結婚は幸福なものではなかった。ミハイルは己の情熱を軍務にのみ注ぎ、エレナを放任していた。それにもかかわらず、夫妻には5人の子供が生まれた。

エレナは義兄アレクサンドル1世夫妻と親しかった。義理の甥アレクサンドル(のちの皇帝アレクサンドル2世)の妃で、内向的なマリア・アレクサンドロヴナとも瞬く間にうち解け、友人となった。1849年にミハイルと死別すると、彼女はいくつもの慈善団体や芸術家たちの支援者となった。エレナはロシア音楽協会およびサンクトペテルブルク音楽院の設立者の一人であり、ロシアでの赤十字社の前身となった尼僧による看護会を設立した。

子女