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「レプニン家」の版間の差分

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* [[アニキータ・レプニン|アニキータ・イヴァノヴィチ・レプニン]](1668年‐1726年)…ボリスの孫。[[大北方戦争]]に従軍した将軍で、陸軍元帥および*国防長官まで上りつめた。
* [[アニキータ・レプニン|アニキータ・イヴァノヴィチ・レプニン]](1668年‐1726年)…ボリスの孫。[[大北方戦争]]に従軍した将軍で、陸軍元帥および*国防長官まで上りつめた。
* ヴァシーリー・アニキートノヴィチ・レプニン(1696年‐1748年)…アニキータの子。[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]の傅育官で陸軍士官学校校長。[[オーストリア継承戦争]]の軍総司令官を務め、[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]成立に尽力したが、その帰途で没した。
* ヴァシーリー・アニキートノヴィチ・レプニン(1696年‐1748年)…アニキータの子。[[ピョートル3世 (ロシア皇帝)|ピョートル3世]]の傅育官で陸軍士官学校校長。[[オーストリア継承戦争]]の軍総司令官を務め、[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]成立に尽力したが、その帰途で没した。
* [[ニコライ・レプニン|ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニン]](1734年‐1801年)…ヴァシーリーの子、おそらく一族中最も有名な人物。大使として[[ロシア|ロシア帝国]]による[[ポーランド王国|ポーランド]]への[[内政干渉]]を強化させ、[[露土戦争|対トルコ戦争]]でも活躍した。嫡出には3人の娘しかいなかったため、[[アレクサンドル1世]]の許しを得て孫のニコライ・ヴォルコンスキー公にレプニンの姓と[[紋章]]を相続させた。このため子孫はレプニン=ヴォルコンスキー公家を名乗っている。庶子に[[詩人]][[イヴァン・プーニン]]がいる。
* [[ニコライ・レプニン|ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・レプニン]](1734年‐1801年)…ヴァシーリーの子、おそらく一族中最も有名な人物。大使として[[ロシア|ロシア帝国]]による[[ポーランド王国|ポーランド]]への[[内政干渉]]を強化させ、[[露土戦争|対トルコ戦争]]でも活躍した。嫡出には3人の娘しかいなかったため、[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の許しを得て孫のニコライ・ヴォルコンスキー公にレプニンの姓と[[紋章]]を相続させた。このため子孫はレプニン=ヴォルコンスキー公家を名乗っている。庶子に[[詩人]][[イヴァン・プーニン]]がいる。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2021年6月13日 (日) 08:01時点における最新版

キエフチェルニゴフのエンブレムからなるレプニン家の盾の紋章

レプニン家(Репнин / Repnin)は、リューリク朝の流れをくむ由緒あるクニャージ)の家系。家名は一族の始祖イヴァン・ミハイロヴィチ・オボレンスキー公(1523年没)の、「まずいお粥」を意味する綽名「レプーニャ」に由来する。本家筋のオボレンスキー家と同じく、1246年にモンゴル帝国によって殺害されたキエフ大公ミハイル・チェルニゴフスキーの子孫である。

輩出した人物[編集]

同家に属する人物は全て「prince」に相当する「公(Князь / knyaz)」ないし「公女(княжна / knyaginya)」の称号を以て称されるが、ここでは略する。

関連項目[編集]