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「アレクサンダー広場」の版間の差分

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'''アレクサンダー広場'''(アレクサンダーひろば、'''Alexanderplatz''')は、[[ドイツ]]の首都[[ベルリン]]の[[ミッテ区 (ベルリン)|ミッテ区]]にある広場。同市の交通の要衝でもあり、近くには[[ベルリン大聖堂]]や[[赤の市庁舎]]があり[[シュプレー川]]が流れている。
'''アレクサンダー広場'''(アレクサンダーひろば、'''Alexanderplatz''')は、[[ドイツ]]の首都[[ベルリン]]の[[ミッテ区 (ベルリン)|ミッテ区]]にある広場。同市の交通の要衝でもあり、近くには[[ベルリン大聖堂]]や[[赤の市庁舎]]があり[[シュプレー川]]が流れている。


元は牛の市場であった。ロシア皇帝の[[アレクサンドル1世]]が、1805年10月25日にベルリンを訪れたことを祝って、名づけられた{{Sfn|『新ドイツの街角から』|2011|p=23}}。19世紀には、近くに建設された同名の駅や私設の市場と共に、重要な役割を果たすようになり、主要な商業センターとなった。1920年代には、[[ポツダム広場]]と共にベルリンのナイトライフの中心となった。
元は牛の市場であった。ロシア皇帝の[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]が、1805年10月25日にベルリンを訪れたことを祝って、名づけられた{{Sfn|『新ドイツの街角から』|2011|p=23}}。19世紀には、近くに建設された同名の駅や私設の市場と共に、重要な役割を果たすようになり、主要な商業センターとなった。1920年代には、[[ポツダム広場]]と共にベルリンのナイトライフの中心となった。


広場は何度か再開発され、最近では1960年代に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]によって行われ、この時に[[ベルリンテレビ塔]]が建てられた。
広場は何度か再開発され、最近では1960年代に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]によって行われ、この時に[[ベルリンテレビ塔]]が建てられた。

2021年6月13日 (日) 08:01時点における版

テレビ塔からみたアレクサンダー広場、2002年。下方はアレクサンダー広場駅
アレクサンダー広場にあるウーラニアー世界時計
Alexanderplatz by the night in 2015

アレクサンダー広場(アレクサンダーひろば、Alexanderplatz)は、ドイツの首都ベルリンミッテ区にある広場。同市の交通の要衝でもあり、近くにはベルリン大聖堂赤の市庁舎がありシュプレー川が流れている。

元は牛の市場であった。ロシア皇帝のアレクサンドル1世が、1805年10月25日にベルリンを訪れたことを祝って、名づけられた[1]。19世紀には、近くに建設された同名の駅や私設の市場と共に、重要な役割を果たすようになり、主要な商業センターとなった。1920年代には、ポツダム広場と共にベルリンのナイトライフの中心となった。

広場は何度か再開発され、最近では1960年代に東ドイツによって行われ、この時にベルリンテレビ塔が建てられた。

広場にはウーラニアー世界時計があり、待ち合わせ場所に利用されている[2]

脚注

参考文献

  • 高橋憲『新ドイツの街角から ドイツ文化事情』郁文堂、2011年。ISBN 978-4-261-01240-8 
  • 熊谷徹『観光コースでないベルリン ヨーロッパ現代史の十字路』高文研、2009年。ISBN 978-4-87498-420-8 

外部リンク

座標: 北緯52度31分18秒 東経13度24分48秒 / 北緯52.52167度 東経13.41333度 / 52.52167; 13.41333