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公爵夫人の地位を得たドロテアは、その美貌も相まって上流社交界に歓迎された。夫のビロンは宗主である[[ポーランド王]]やクールラント貴族との確執などのため政治的な難局にあり、ドロテアを外交交渉のため頻繁に[[ワルシャワ]]に送り込み、後には短期間であるが[[ベルリン]]、[[カルロヴィ・ヴァリ|カールスバート]]、[[サンクトペテルブルク]]にも何度か妻を遣わした。ドロテアはビロンと長く離れて暮らすうちに夫とは疎遠な関係になってしまい、[[グスタフ・マウリッツ・アルムフェルト]]伯爵、[[タレーラン]]、ポーランド貴族のアレクサンデル・バトフスキ伯爵を始めとする数多くの男性と浮き名を流した。ドロテアが1793年に産んだ同名の娘ドロテアの実の父親はバトフスキ伯爵だったが、ビロンは妻の産んだ子を認知している。1794年、公爵夫人はベルリンのクールラント宮殿に移り住み、この邸宅で貴族[[サロン]]を開いた。
公爵夫人の地位を得たドロテアは、その美貌も相まって上流社交界に歓迎された。夫のビロンは宗主である[[ポーランド王]]やクールラント貴族との確執などのため政治的な難局にあり、ドロテアを外交交渉のため頻繁に[[ワルシャワ]]に送り込み、後には短期間であるが[[ベルリン]]、[[カルロヴィ・ヴァリ|カールスバート]]、[[サンクトペテルブルク]]にも何度か妻を遣わした。ドロテアはビロンと長く離れて暮らすうちに夫とは疎遠な関係になってしまい、[[グスタフ・マウリッツ・アルムフェルト]]伯爵、[[タレーラン]]、ポーランド貴族のアレクサンデル・バトフスキ伯爵を始めとする数多くの男性と浮き名を流した。ドロテアが1793年に産んだ同名の娘ドロテアの実の父親はバトフスキ伯爵だったが、ビロンは妻の産んだ子を認知している。1794年、公爵夫人はベルリンのクールラント宮殿に移り住み、この邸宅で貴族[[サロン]]を開いた。


1794年、ドロテアは[[アルテンブルガー・ラント郡|アルテンブルク地方]]の[[レービハウ]]荘園を入手し、以後はこの地所に建てた城館で夏の休暇を過ごすようになった。レービハウの城館には詩人、哲学者、親戚や友人が招待され、城館は「クールラント公爵夫人の[[ミューズ]]の館」として有名になった。ドロテアの姉エリーゼ・フォン・デア・レッケはレービハウの城館に住みついた詩人[[クリストフ・アウグスト・ティートゲ]]と結ばれ、ロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]、プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]、フランス皇帝[[ナポレオン1世]]、[[タレーラン]]、[[メッテルニヒ]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]など同時代の大勢の有名人がクールラント公爵夫人の親しい友人だった。
1794年、ドロテアは[[アルテンブルガー・ラント郡|アルテンブルク地方]]の[[レービハウ]]荘園を入手し、以後はこの地所に建てた城館で夏の休暇を過ごすようになった。レービハウの城館には詩人、哲学者、親戚や友人が招待され、城館は「クールラント公爵夫人の[[ミューズ]]の館」として有名になった。ドロテアの姉エリーゼ・フォン・デア・レッケはレービハウの城館に住みついた詩人[[クリストフ・アウグスト・ティートゲ]]と結ばれ、ロシア皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]、プロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]、フランス皇帝[[ナポレオン1世]]、[[タレーラン]]、[[メッテルニヒ]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]など同時代の大勢の有名人がクールラント公爵夫人の親しい友人だった。


1809年、末娘のドロテアがタレーランの甥[[エドモン・ド・タレーラン=ペリゴール]]と結婚すると、公爵夫人は[[パリ]]に移住し、タレーランと再び情熱的な関係を持つようになり、タレーランにナポレオンを裏切るよう説得するなど大きな影響を与えた。1814年、公爵夫人はタレーランが自分の娘ドロテアと愛人関係に陥ったことについて問いただすため、[[ウィーン会議]]の最中に[[ウィーン]]を訪れた。1821年、公爵夫人ドロテアはレービハウで亡くなり、彼女の遺骸は一家の墓所のあるザーガン(現在の[[ポーランド]]領[[ジャガン]])に移された。夫のビロンはすでに1800年に死んでおり、この墓所に安置されていた。
1809年、末娘のドロテアがタレーランの甥[[エドモン・ド・タレーラン=ペリゴール]]と結婚すると、公爵夫人は[[パリ]]に移住し、タレーランと再び情熱的な関係を持つようになり、タレーランにナポレオンを裏切るよう説得するなど大きな影響を与えた。1814年、公爵夫人はタレーランが自分の娘ドロテアと愛人関係に陥ったことについて問いただすため、[[ウィーン会議]]の最中に[[ウィーン]]を訪れた。1821年、公爵夫人ドロテアはレービハウで亡くなり、彼女の遺骸は一家の墓所のあるザーガン(現在の[[ポーランド]]領[[ジャガン]])に移された。夫のビロンはすでに1800年に死んでおり、この墓所に安置されていた。

2021年6月13日 (日) 08:03時点における版

ドロテア・フォン・メデム
Dorothea von Medem
クールラント公
在位 1779年 - 1800年

出生 (1761-02-03) 1761年2月3日
クールラント・ゼムガレン公国メジョトネ、メゾテン宮殿
死去 (1821-08-20) 1821年8月20日(60歳没)
ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国、レービハウ
埋葬 ザーガン公国、ザーガン
結婚 1779年11月6日
配偶者 クールラント公ペーター・フォン・ビロン
子女 一覧参照
家名 メデム家
父親 フリードリヒ・フォン・メデム
母親 ルイーゼ・シャルロッテ・フォン・マントイフェル
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ドロテア・フォン・メデム(Dorothea von Medem、1761年2月3日 - 1821年8月20日)は、バルト・ドイツ人の貴族女性。最後のクールラント公ペーター・フォン・ビロンの3番目の妻。ベルリンで貴族サロンを主宰し、別居していた夫の便宜を図り様々な外交交渉を行ったことで知られる。

生涯

ドロテアは現在のラトヴィアメジョトネにあるメゾテン宮殿で生れた。父は帝国伯爵の称号を持つ古いクールラント貴族出身で、ロシア帝国軍に陸軍中尉(ポルチク)として出仕するフリードリヒ・フォン・メデム、母はその2番目の妻ルイーゼ・シャルロッテ・フォン・マントイフェルである。父メデム伯爵は、1263年から1266年までリヴォニア騎士団長を務めたコンラート・フォン・マンダーンの子孫であり、1774年、キュチュク・カイナルジ条約締結に功あって聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を授与された。伯爵はミタウの邸宅「ヴィラ・メデム」を始め、多くの財産を有していた。女性詩人エリーザ・フォン・デア・レッケは、ドロテアの腹違いの姉にあたる。

1779年11月6日、18歳のドロテアは37歳年上の子供のないクールラント公ペーター・フォン・ビロンの三番目の妻に迎えられた。ビロンはロシア女帝アンナ・イオアノヴナの寵臣だったエルンスト・ヨハン・フォン・ビロンの息子であった。ドロテアは6人の子供を産んだが、そのうち2人は幼い時に亡くなった。ただし、末娘のドロテアはおそらく私生児である。

公爵夫人の地位を得たドロテアは、その美貌も相まって上流社交界に歓迎された。夫のビロンは宗主であるポーランド王やクールラント貴族との確執などのため政治的な難局にあり、ドロテアを外交交渉のため頻繁にワルシャワに送り込み、後には短期間であるがベルリンカールスバートサンクトペテルブルクにも何度か妻を遣わした。ドロテアはビロンと長く離れて暮らすうちに夫とは疎遠な関係になってしまい、グスタフ・マウリッツ・アルムフェルト伯爵、タレーラン、ポーランド貴族のアレクサンデル・バトフスキ伯爵を始めとする数多くの男性と浮き名を流した。ドロテアが1793年に産んだ同名の娘ドロテアの実の父親はバトフスキ伯爵だったが、ビロンは妻の産んだ子を認知している。1794年、公爵夫人はベルリンのクールラント宮殿に移り住み、この邸宅で貴族サロンを開いた。

1794年、ドロテアはアルテンブルク地方レービハウ荘園を入手し、以後はこの地所に建てた城館で夏の休暇を過ごすようになった。レービハウの城館には詩人、哲学者、親戚や友人が招待され、城館は「クールラント公爵夫人のミューズの館」として有名になった。ドロテアの姉エリーゼ・フォン・デア・レッケはレービハウの城館に住みついた詩人クリストフ・アウグスト・ティートゲと結ばれ、ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、フランス皇帝ナポレオン1世タレーランメッテルニヒゲーテシラーなど同時代の大勢の有名人がクールラント公爵夫人の親しい友人だった。

1809年、末娘のドロテアがタレーランの甥エドモン・ド・タレーラン=ペリゴールと結婚すると、公爵夫人はパリに移住し、タレーランと再び情熱的な関係を持つようになり、タレーランにナポレオンを裏切るよう説得するなど大きな影響を与えた。1814年、公爵夫人はタレーランが自分の娘ドロテアと愛人関係に陥ったことについて問いただすため、ウィーン会議の最中にウィーンを訪れた。1821年、公爵夫人ドロテアはレービハウで亡くなり、彼女の遺骸は一家の墓所のあるザーガン(現在のポーランドジャガン)に移された。夫のビロンはすでに1800年に死んでおり、この墓所に安置されていた。

子女

ドロテアは夫のビロンとの間に6人の子女をもうけた。

  1. カタリーナ・フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ・ベニグナ(1781年 - 1839年) - ザーガン女公ヴィルヘルミーネとして知られる。父の死により、シレジアのザーガン公国とボヘミアのナーホトにある荘園(ヘルシャフト)を相続した。
  2. マリア・ルイーゼ・パウリーネ(1782年 - 1845年) - ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯フリードリヒ・ヘルマン・オットーと結婚した。父よりプラゲル宮殿とホールシュタイン、ネトコウの荘園を、姉ヴィルヘルミーネよりナーホトの荘園を相続した。
  3. ヨハンナ・カタリーナ(1783年 - 1876年) - 第8代ベルモンテ公の弟アチェレンツァ公爵フランチェスコ・ラヴァスキエーリ・フィエスキ・スクアルチャフィコ・ピネッリ・ピニャテッリ・イ・アイメルク(ナポリ王妃マリア・カロリーナの愛人)と結婚した。1806年にプラハのクルラント宮殿を相続し、母の死に伴いアルテンブルク地方レービハウ荘園を相続した。
  4. ペーター(1787年 - 1790年)
  5. 子供(生後すぐ死亡)
  6. ドロテア(1793年 - 1862年) - 第7代タレーラン公爵、ディーノ公爵エドモン・ド・タレーラン=ペリゴールと結婚した。実の父親はポーランド貴族アレクサンデル・バトフスキだったが、ビロンによって実子として認知された。ビロンが死ぬとベルリンのクールラント宮殿とヴァルテンブルクの荘園を相続した。1842年に異父姉パウリーネが死ぬと、ザーガン女公を引き継いだ。

参考文献

  • Elisa von der Recke: Tagebücher und Selbstzeugnisse. Leipzig 1984
  • Emilie von Binzer: Drei Sommer in Löbichau 1819–21. Stuttgart 1877
  • Philip Ziegler: Die Herzogin von Dino, Talleyrands letzte Vertraute. München 1965
  • Clemens Brühl: Die Sagan. Berlin 1941
  • Sabine und Klaus Hofmann: Zwischen Metternich und Talleyrand. Der Musenhof der Herzogin von Kurland im Schloss zu Löbichau. Museum Burg Posterstein, 2004
  • Christoph August Tiedge: Anna Charlotte Dorothea. Letzte Herzogin von Kurland. F. A. Brockhaus, Leipzig 1823 Online-Version at Google Books

外部リンク