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ポーランドの開明派貴族層の指導者だった[[アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ]]公と、その妻の[[イザベラ・チャルトリスカ|イザベラ・フレミング]]伯爵夫人の間に次男として生まれた。共和国の崩壊後、女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]により兄アダムと一緒に[[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]に呼び寄せられ、近衛連隊の士官とされた。また女帝の孫息子[[コンスタンチン・パヴロヴィチ]]大公の副官に任じられた。[[ワルシャワ公国]]時代は、1809年にポーランド軍に1個連隊を組織して参加し、連隊長(大佐)として活躍した。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]皇帝による[[1812年ロシア戦役]]では、[[モスクワ]]入城に際して戦功を立て、表彰された。
ポーランドの開明派貴族層の指導者だった[[アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ]]公と、その妻の[[イザベラ・チャルトリスカ|イザベラ・フレミング]]伯爵夫人の間に次男として生まれた。共和国の崩壊後、女帝[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]により兄アダムと一緒に[[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]に呼び寄せられ、近衛連隊の士官とされた。また女帝の孫息子[[コンスタンチン・パヴロヴィチ]]大公の副官に任じられた。[[ワルシャワ公国]]時代は、1809年にポーランド軍に1個連隊を組織して参加し、連隊長(大佐)として活躍した。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]皇帝による[[1812年ロシア戦役]]では、[[モスクワ]]入城に際して戦功を立て、表彰された。


[[ウィーン会議]]後の1815年に[[ポーランド会議王国]]の陸軍准将に任じられた。1816年、コンスタンティは短期間ながらサンクトペテルブルクに戻り、皇帝[[アレクサンドル1世]]の最高副官を務めたが、すぐに公的生活から引退してしまった。[[11月蜂起]]前夜の1828年、[[オーストリア帝国]]の首都[[ウィーン]]に移り住み、母親と同じく美術品の収集に情熱を傾けた。1832年<ref>''Meyers Konversations-Lexikon'', 5. Auflage, 4. Band, Bibliographisches Institut, Leipzig und Wien 1895, S. 458</ref>(ないし1834年)、同市の18区(ヴェーリンク区)の外れのヴァインハウス地区の屋敷数軒を購入し、新しく改装した邸宅を[[チャルトリスキ・シュレッセル]]と名付けた。広大な屋敷を購入したことで、コンスタンティの美術品収集はさらに勢いを増した。
[[ウィーン会議]]後の1815年に[[ポーランド会議王国]]の陸軍准将に任じられた。1816年、コンスタンティは短期間ながらサンクトペテルブルクに戻り、皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の最高副官を務めたが、すぐに公的生活から引退してしまった。[[11月蜂起]]前夜の1828年、[[オーストリア帝国]]の首都[[ウィーン]]に移り住み、母親と同じく美術品の収集に情熱を傾けた。1832年<ref>''Meyers Konversations-Lexikon'', 5. Auflage, 4. Band, Bibliographisches Institut, Leipzig und Wien 1895, S. 458</ref>(ないし1834年)、同市の18区(ヴェーリンク区)の外れのヴァインハウス地区の屋敷数軒を購入し、新しく改装した邸宅を[[チャルトリスキ・シュレッセル]]と名付けた。広大な屋敷を購入したことで、コンスタンティの美術品収集はさらに勢いを増した。


1802年にアニェラ・ラジヴィウ公女(1781年 - 1808年)と結婚し、間に長男をもうけた。1810年にマリア・ジェルジャノフスカ(1790年 - 1842年)と再婚し、三男一女をもうけた。死後、チャルトリスキ・シュレッセルを相続したのは四男で末息子の[[イェジ・コンスタンティ・チャルトリスキ]](1828年 - 1912年)であった。また、次男アレクサンデル・ロムアルト・チャルトリスキ(1811年 - 1886年)の妻{{仮リンク|マルツェリーナ・チャルトリスカ|en|Marcelina_Czartoryska|pl|Marcelina_Czartoryska}}は、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の門下生で高名なピアニストだった。
1802年にアニェラ・ラジヴィウ公女(1781年 - 1808年)と結婚し、間に長男をもうけた。1810年にマリア・ジェルジャノフスカ(1790年 - 1842年)と再婚し、三男一女をもうけた。死後、チャルトリスキ・シュレッセルを相続したのは四男で末息子の[[イェジ・コンスタンティ・チャルトリスキ]](1828年 - 1912年)であった。また、次男アレクサンデル・ロムアルト・チャルトリスキ(1811年 - 1886年)の妻{{仮リンク|マルツェリーナ・チャルトリスカ|en|Marcelina_Czartoryska|pl|Marcelina_Czartoryska}}は、[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の門下生で高名なピアニストだった。

2021年6月13日 (日) 08:06時点における版

コンスタンティ・アダム・チャルトリスキ
Konstanty Adam Czartoryski
コンスタンティ・アダム・チャルトリスキ、1821年

出生 (1774-10-28) 1774年10月28日
ポーランド・リトアニア共和国ワルシャワ
死去 (1860-04-23) 1860年4月23日(85歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
配偶者 アニェラ・ラジヴィウ
  マリア・ジェルジャノフスカ
子女 アレクサンデル・ロムアルト
イェジ・コンスタンティ 他
家名 チャルトリスキ家
父親 アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ
母親 イザベラ・フレミング
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コンスタンティ・アダム・チャルトリスキ(Konstanty Adam Czartoryski, 1774年10月28日 - 1860年4月23日)は、ポーランド・リトアニアの貴族、公(Książę)、軍人、美術品収集家。「ポーランドの無冠の王」と称されたアダム・イェジ・チャルトリスキ公の弟。

生涯

ポーランドの開明派貴族層の指導者だったアダム・カジミェシュ・チャルトリスキ公と、その妻のイザベラ・フレミング伯爵夫人の間に次男として生まれた。共和国の崩壊後、女帝エカチェリーナ2世により兄アダムと一緒にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに呼び寄せられ、近衛連隊の士官とされた。また女帝の孫息子コンスタンチン・パヴロヴィチ大公の副官に任じられた。ワルシャワ公国時代は、1809年にポーランド軍に1個連隊を組織して参加し、連隊長(大佐)として活躍した。ナポレオン皇帝による1812年ロシア戦役では、モスクワ入城に際して戦功を立て、表彰された。

ウィーン会議後の1815年にポーランド会議王国の陸軍准将に任じられた。1816年、コンスタンティは短期間ながらサンクトペテルブルクに戻り、皇帝アレクサンドル1世の最高副官を務めたが、すぐに公的生活から引退してしまった。11月蜂起前夜の1828年、オーストリア帝国の首都ウィーンに移り住み、母親と同じく美術品の収集に情熱を傾けた。1832年[1](ないし1834年)、同市の18区(ヴェーリンク区)の外れのヴァインハウス地区の屋敷数軒を購入し、新しく改装した邸宅をチャルトリスキ・シュレッセルと名付けた。広大な屋敷を購入したことで、コンスタンティの美術品収集はさらに勢いを増した。

1802年にアニェラ・ラジヴィウ公女(1781年 - 1808年)と結婚し、間に長男をもうけた。1810年にマリア・ジェルジャノフスカ(1790年 - 1842年)と再婚し、三男一女をもうけた。死後、チャルトリスキ・シュレッセルを相続したのは四男で末息子のイェジ・コンスタンティ・チャルトリスキ(1828年 - 1912年)であった。また、次男アレクサンデル・ロムアルト・チャルトリスキ(1811年 - 1886年)の妻マルツェリーナ・チャルトリスカ英語版ポーランド語版は、ショパンの門下生で高名なピアニストだった。

脚注

  1. ^ Meyers Konversations-Lexikon, 5. Auflage, 4. Band, Bibliographisches Institut, Leipzig und Wien 1895, S. 458