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「アンドレイ・ラズモフスキー」の版間の差分

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[[1808年]]に[[シュパンツィヒ四重奏団]]を創設、[[イグナーツ・シュパンツィヒ]]、ルイーズ・ジーナ(Louis Sina)、フランツ・ヴァイス、[[ヨーゼフ・リンケ]]を団員に迎えた。ラズモフスキー自身も卓越したアマチュアのヴァイオリニストであり、さらに[[ウクライナ]]の[[テオルボ]]である[[:en: torban|torban]]の優れた奏者としても知られていた。4つのtorbanを所有していたことがわかっており、そのうちのひとつはウィーンの[[美術史美術館]]に保管されている。[[1806年]]に[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]に3つの弦楽四重奏曲を委嘱(ラズモフスキー[[弦楽四重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|第1番]]、[[弦楽四重奏曲第8番 (ベートーヴェン)|第2番]]、[[弦楽四重奏曲第9番 (ベートーヴェン)|第3番]])、これによってラズモフスキーの名は広く知られるようになった。彼はベートーヴェンへ各曲に「ロシアの」主題を使用するよう依頼し、これに応えて最初の2曲にはウクライナの主題が用いられた。
[[1808年]]に[[シュパンツィヒ四重奏団]]を創設、[[イグナーツ・シュパンツィヒ]]、ルイーズ・ジーナ(Louis Sina)、フランツ・ヴァイス、[[ヨーゼフ・リンケ]]を団員に迎えた。ラズモフスキー自身も卓越したアマチュアのヴァイオリニストであり、さらに[[ウクライナ]]の[[テオルボ]]である[[:en: torban|torban]]の優れた奏者としても知られていた。4つのtorbanを所有していたことがわかっており、そのうちのひとつはウィーンの[[美術史美術館]]に保管されている。[[1806年]]に[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]に3つの弦楽四重奏曲を委嘱(ラズモフスキー[[弦楽四重奏曲第7番 (ベートーヴェン)|第1番]]、[[弦楽四重奏曲第8番 (ベートーヴェン)|第2番]]、[[弦楽四重奏曲第9番 (ベートーヴェン)|第3番]])、これによってラズモフスキーの名は広く知られるようになった。彼はベートーヴェンへ各曲に「ロシアの」主題を使用するよう依頼し、これに応えて最初の2曲にはウクライナの主題が用いられた。


ラズモフスキーは[[新古典主義]]の宮殿をウィーン市街地に近接した{{仮リンク|ラントシュトラーセ|en|Landstraße}}に私財を投じて建設、屋内をアンティークから同時代の芸術作品で満たした。設計を担ったのは[[:en: Louis Montoyer|Louis Montoyer]]である。[[1814年]][[12月31日]]、皇帝[[アレクサンドル1世]]を名誉招待客に迎えた舞踏会の準備中、建て増しされた仮設の舞踏場から火の手が上がり、舞踏場が炎に包まれるとともに宮殿裏手で部屋を埋めていた美術品が焼失した<ref>{{cite book|last=King|first=David|title=Vienna, 1814|year=2008|publisher=Harmony Books|location=New York, NY|isbn=978-0-307-33716-0|pages=192}}</ref>。翌年には公爵に叙せられるもラズモフスキーの暮らしは一変、ウィーンで隠遁生活を送り1836年に没した。
ラズモフスキーは[[新古典主義]]の宮殿をウィーン市街地に近接した{{仮リンク|ラントシュトラーセ|en|Landstraße}}に私財を投じて建設、屋内をアンティークから同時代の芸術作品で満たした。設計を担ったのは[[:en: Louis Montoyer|Louis Montoyer]]である。[[1814年]][[12月31日]]、皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]を名誉招待客に迎えた舞踏会の準備中、建て増しされた仮設の舞踏場から火の手が上がり、舞踏場が炎に包まれるとともに宮殿裏手で部屋を埋めていた美術品が焼失した<ref>{{cite book|last=King|first=David|title=Vienna, 1814|year=2008|publisher=Harmony Books|location=New York, NY|isbn=978-0-307-33716-0|pages=192}}</ref>。翌年には公爵に叙せられるもラズモフスキーの暮らしは一変、ウィーンで隠遁生活を送り1836年に没した。


ベートーヴェンの[[パトロン]]のひとりであった[[フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ]]侯爵とは義理の兄弟であった。また、最初の夫人であったエリザベート・フォン・トゥーンは[[カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー]]侯爵の義理のきょうだいである{{Citation needed|date=July 2015}}。ウィーンのラズモフスキー宮殿に面した通りは[[1862年]]にラズモフスキーガッセ(Rasumofskygasse)と名付けられた<ref>Viennese street names and their historical meaning (online service of the City of Vienna; in German): http://www.wien.gv.at/kultur/strassennamen/</ref>。ラズモフスキーの生誕260周年にあたる2012年より、[[バトゥールィン]]のラズモフスキー宮殿においてアンドレイ・ラズモフスキー音楽祭が開催されている。
ベートーヴェンの[[パトロン]]のひとりであった[[フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ]]侯爵とは義理の兄弟であった。また、最初の夫人であったエリザベート・フォン・トゥーンは[[カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー]]侯爵の義理のきょうだいである{{Citation needed|date=July 2015}}。ウィーンのラズモフスキー宮殿に面した通りは[[1862年]]にラズモフスキーガッセ(Rasumofskygasse)と名付けられた<ref>Viennese street names and their historical meaning (online service of the City of Vienna; in German): http://www.wien.gv.at/kultur/strassennamen/</ref>。ラズモフスキーの生誕260周年にあたる2012年より、[[バトゥールィン]]のラズモフスキー宮殿においてアンドレイ・ラズモフスキー音楽祭が開催されている。

2021年6月13日 (日) 08:09時点における版

アンドレイ・ラズモフスキー
Andrey Razumovsky
生誕 1752年11月2日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 グルーホフ
死没 (1836-09-23) 1836年9月23日(83歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 ウィーン
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アンドレイ・キリロヴィチ・ラズモフスキー伯爵のち公爵(Andrey Kirillovich Razumovsky, ロシア語: Андре́й Кири́ллович Разумо́вский, Rasumovsky; ウクライナ語: Андрі́й Кири́лович Розумо́вський, Andriy Kyrylovych Rozumovskyi 1752年11月2日 - 1836年9月23日)は、ロシアの外交官。ウィーンにおいて長い年月を過ごした。英語文献において名前がアルファベット転写される場合、綴りにはRazumovskyRasoumoffskyRasoumoffskyなどの揺らぎがみられる。このうち最後のものは1815年パリ条約ウィーン会議においてイギリス政府がフランス語から公式に転記した際に用いた綴りである。

生涯

ラズモフスキーはザポロージャ最後のヘーチマンであったキリル・ラズモフスキー英語版と、ロシア皇帝エリザヴェータの従姉妹であったCatherine Naryshkinaの間に生まれた。また、「夜の皇帝」と呼ばれたアレクセイ・ラズモフスキー英語版の甥にあたる。ネフスキー大通りに位置するキリル・ラズモフスキーの後期バロック様式の宮殿はサンクトペテルブルクの目立たぬ史跡である。1792年ウィーンハプスブルク家宮廷でのロシア外交官に任命されたが、これはナポレオンの時代には外交官として極めて重要な役職のひとつだった。1814年にヨーロッパへ秩序を取り戻したウィーン会議において首席交渉官を務め、ポーランドにおけるロシアの権益を主張した。

1808年シュパンツィヒ四重奏団を創設、イグナーツ・シュパンツィヒ、ルイーズ・ジーナ(Louis Sina)、フランツ・ヴァイス、ヨーゼフ・リンケを団員に迎えた。ラズモフスキー自身も卓越したアマチュアのヴァイオリニストであり、さらにウクライナテオルボであるtorbanの優れた奏者としても知られていた。4つのtorbanを所有していたことがわかっており、そのうちのひとつはウィーンの美術史美術館に保管されている。1806年ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに3つの弦楽四重奏曲を委嘱(ラズモフスキー第1番第2番第3番)、これによってラズモフスキーの名は広く知られるようになった。彼はベートーヴェンへ各曲に「ロシアの」主題を使用するよう依頼し、これに応えて最初の2曲にはウクライナの主題が用いられた。

ラズモフスキーは新古典主義の宮殿をウィーン市街地に近接したラントシュトラーセ英語版に私財を投じて建設、屋内をアンティークから同時代の芸術作品で満たした。設計を担ったのはLouis Montoyerである。1814年12月31日、皇帝アレクサンドル1世を名誉招待客に迎えた舞踏会の準備中、建て増しされた仮設の舞踏場から火の手が上がり、舞踏場が炎に包まれるとともに宮殿裏手で部屋を埋めていた美術品が焼失した[1]。翌年には公爵に叙せられるもラズモフスキーの暮らしは一変、ウィーンで隠遁生活を送り1836年に没した。

ベートーヴェンのパトロンのひとりであったフランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ侯爵とは義理の兄弟であった。また、最初の夫人であったエリザベート・フォン・トゥーンはカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵の義理のきょうだいである[要出典]。ウィーンのラズモフスキー宮殿に面した通りは1862年にラズモフスキーガッセ(Rasumofskygasse)と名付けられた[2]。ラズモフスキーの生誕260周年にあたる2012年より、バトゥールィンのラズモフスキー宮殿においてアンドレイ・ラズモフスキー音楽祭が開催されている。

出典

  1. ^ King, David (2008). Vienna, 1814. New York, NY: Harmony Books. pp. 192. ISBN 978-0-307-33716-0 
  2. ^ Viennese street names and their historical meaning (online service of the City of Vienna; in German): http://www.wien.gv.at/kultur/strassennamen/

外部リンク