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「ジョルジュ・ダンテス」の版間の差分

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'''ジョルジュ=シャルル・ド・エシュラン・ダンテス'''({{lang-fr-short|Georges-Charles de Heecheren d'Anthès}}、[[1812年]][[2月5日]] - [[1895年]][[11月2日]])は、[[フランス人]]士官で、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]と[[決闘]]を行った人物である。
'''ジョルジュ=シャルル・ド・エシュラン・ダンテス'''({{lang-fr-short|Georges-Charles de Heecheren d'Anthès}}、[[1812年]][[2月5日]] - [[1895年]][[11月2日]])は、[[フランス人]]士官で、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]と[[決闘]]を行った人物である。


[[アルザス]]の[[コルマール]]で、[[王党派]]の[[エミグレ]]の家に生まれた。[[サンシール陸軍士官学校]]を卒業したのち[[フランス7月革命]]では[[シャルル10世]]側に立って戦うも敗北し、[[7月王政]]への忠誠を拒絶して[[プロイセン]]へ渡り、[[1833年]]に[[サンクトペテルブルク]]に亡命。オランダ大使[[:w:Jacob van Heeckeren tot Enghuizen|ヤコブ・ファン・ヘッケレン男爵]]によってペテルブルクの社交界に引き出された。美男子で放蕩者のダンテスは、ヘッケレン男爵と[[男色]]の関係にあったと言われる。1836年にヘッケレン男爵の養子となった。類稀な美人であったと言われるプーシキンの妻[[ナターリア・プーシキナ|ナターリア]]を慕うようになる。ダンテスは1837年にナターリアの姉{{仮リンク|エカテリーナ・ゴンチャロワ|ru|Гончарова, Екатерина Николаевна}}と結婚するが、その後もナターリアに言い寄り続け、業を煮やしたプーシキンは決闘を申し込んだ。決闘は[[1837年]][[2月8日]](旧暦で[[1月27日]])、ペテルブルク郊外の雪原で行われた。プーシキンはダンテスの撃った弾を右腹部に受けて倒れ、その2日後に息を引きとった。ダンテスは逮捕されて[[ペトロパヴロフスク要塞]]ヘ収監されたが、プーシキンが決闘を申しこんだという事実に鑑みて皇帝[[ニコライ1世]]により特赦された。しかし男爵の爵位は剥奪された。
[[アルザス]]の[[コルマール]]で、[[王党派]]の[[エミグレ]]の家に生まれた。[[サンシール陸軍士官学校]]を卒業したのち[[フランス7月革命]]では[[シャルル10世]]側に立って戦うも敗北し、[[7月王政]]への忠誠を拒絶して[[プロイセン]]へ渡り、[[1833年]]に[[サンクトペテルブルク]]に亡命。オランダ大使[[:w:Jacob van Heeckeren tot Enghuizen|ヤコブ・ファン・ヘッケレン男爵]]によってペテルブルクの社交界に引き出された。美男子で放蕩者のダンテスは、ヘッケレン男爵と[[男色]]の関係にあったと言われる。1836年にヘッケレン男爵の養子となった。類稀な美人であったと言われるプーシキンの妻[[ナターリア・プーシキナ|ナターリア]]を慕うようになる。ダンテスは1837年にナターリアの姉{{仮リンク|エカテリーナ・ゴンチャロワ|ru|Гончарова, Екатерина Николаевна}}と結婚するが、その後もナターリアに言い寄り続け、業を煮やしたプーシキンは決闘を申し込んだ。決闘は[[1837年]][[2月8日]](旧暦で[[1月27日]])、ペテルブルク郊外の雪原で行われた。プーシキンはダンテスの撃った弾を右腹部に受けて倒れ、その2日後に息を引きとった。ダンテスは逮捕されて[[ペトロパヴロフスク要塞]]ヘ収監されたが、プーシキンが決闘を申しこんだという事実に鑑みて皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]により特赦された。しかし男爵の爵位は剥奪された。


[[File:D'Antes grave 02.jpg|thumb|150px|スルツ=オー=ランにあるダンテスの墓石]]
[[File:D'Antes grave 02.jpg|thumb|150px|スルツ=オー=ランにあるダンテスの墓石]]

2021年6月13日 (日) 08:16時点における最新版

ジョルジュ・ダンテス

ジョルジュ=シャルル・ド・エシュラン・ダンテス: Georges-Charles de Heecheren d'Anthès1812年2月5日 - 1895年11月2日)は、フランス人士官で、プーシキン決闘を行った人物である。

アルザスコルマールで、王党派エミグレの家に生まれた。サンシール陸軍士官学校を卒業したのちフランス7月革命ではシャルル10世側に立って戦うも敗北し、7月王政への忠誠を拒絶してプロイセンへ渡り、1833年サンクトペテルブルクに亡命。オランダ大使ヤコブ・ファン・ヘッケレン男爵によってペテルブルクの社交界に引き出された。美男子で放蕩者のダンテスは、ヘッケレン男爵と男色の関係にあったと言われる。1836年にヘッケレン男爵の養子となった。類稀な美人であったと言われるプーシキンの妻ナターリアを慕うようになる。ダンテスは1837年にナターリアの姉エカテリーナ・ゴンチャロワロシア語版と結婚するが、その後もナターリアに言い寄り続け、業を煮やしたプーシキンは決闘を申し込んだ。決闘は1837年2月8日(旧暦で1月27日)、ペテルブルク郊外の雪原で行われた。プーシキンはダンテスの撃った弾を右腹部に受けて倒れ、その2日後に息を引きとった。ダンテスは逮捕されてペトロパヴロフスク要塞ヘ収監されたが、プーシキンが決闘を申しこんだという事実に鑑みて皇帝ニコライ1世により特赦された。しかし男爵の爵位は剥奪された。

スルツ=オー=ランにあるダンテスの墓石

その後、護衛付きでベルリンへ妻エカテリーナと共に護送され、フランスに戻ったダンテスは、第二帝政期に元老院議員となった。妻エカテリーナは1843年10月15日に4人目の子の出産の際に死亡した。ダンテスはドイツ領となったエルザスのズルツ/オーバーエルザス(現在のソルツ=オー=ラン)の家で1895年に死亡し、同地の墓地に妻と共に埋葬されている。

現在、決闘のあった場所には1937年に作られた記念碑が立っている。