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「皇帝官房」の版間の差分

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'''皇帝官房'''('''皇帝直属官房'''、'''Собственная Его Императорского Величества канцелярия'''、または、'''Собственная Е.И.В. канцелярия'''、'''His Imperial Majesty's Own Chancellery'''、または、'''H.I.M. Own Chancellery''')は、[[帝政ロシア]]における[[ロシア皇帝|皇帝]]直属の[[行政機関]]。 起源は[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]の個人官房から始まる。その後、[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の寵臣であった[[アレクセイ・アラクチェーエフ]]伯によって強大な権力機構に成長する。さらに「'''ヨーロッパの[[憲兵]]'''」を持って自他ともに任じた[[ニコライ1世]]によって、[[大臣会議]]([[内閣]]に相当)、[[元老院]]と同等の権限を有する巨大な行政機関として体裁を整えられていった。[[1826年]]以降、皇帝官房に設置された部(otdeleniye、Section)は、以下の通りである。
'''皇帝官房'''('''皇帝直属官房'''、'''Собственная Его Императорского Величества канцелярия'''、または、'''Собственная Е.И.В. канцелярия'''、'''His Imperial Majesty's Own Chancellery'''、または、'''H.I.M. Own Chancellery''')は、[[帝政ロシア]]における[[ロシア皇帝|皇帝]]直属の[[行政機関]]。 起源は[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]の個人官房から始まる。その後、[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]の寵臣であった[[アレクセイ・アラクチェーエフ]]伯によって強大な権力機構に成長する。さらに「'''ヨーロッパの[[憲兵]]'''」を持って自他ともに任じた[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]によって、[[大臣会議]]([[内閣]]に相当)、[[元老院]]と同等の権限を有する巨大な行政機関として体裁を整えられていった。[[1826年]]以降、皇帝官房に設置された部(otdeleniye、Section)は、以下の通りである。
* '''第一部''' - [[勅令]]、叙勲の準備、詔書発行の管理、[[知事]]及び[[閣僚]]との連絡報告、皇帝への陳情、嘆願書、[[行政管理]]、賞勲事業を担当。皇帝の国務長官(国務書記)によって運営された。
* '''第一部''' - [[勅令]]、叙勲の準備、詔書発行の管理、[[知事]]及び[[閣僚]]との連絡報告、皇帝への陳情、嘆願書、[[行政管理]]、賞勲事業を担当。皇帝の国務長官(国務書記)によって運営された。
* '''第二部''' - 法制、法務広報を担当。初代長官は、[[ミハイル・スペランスキー]]。
* '''第二部''' - 法制、法務広報を担当。初代長官は、[[ミハイル・スペランスキー]]。

2021年6月13日 (日) 08:19時点における最新版

皇帝官房皇帝直属官房Собственная Его Императорского Величества канцелярия、または、Собственная Е.И.В. канцелярияHis Imperial Majesty's Own Chancellery、または、H.I.M. Own Chancellery)は、帝政ロシアにおける皇帝直属の行政機関。 起源はパーヴェル1世の個人官房から始まる。その後、アレクサンドル1世の寵臣であったアレクセイ・アラクチェーエフ伯によって強大な権力機構に成長する。さらに「ヨーロッパの憲兵」を持って自他ともに任じたニコライ1世によって、大臣会議内閣に相当)、元老院と同等の権限を有する巨大な行政機関として体裁を整えられていった。1826年以降、皇帝官房に設置された部(otdeleniye、Section)は、以下の通りである。

1880年内務大臣ロリス=メリコフによる改革の一環として皇帝官房は見直しが行われ、対応する省庁へその権限が移管された。1882年には第一部のみが皇帝官房となり皇帝の私的家政機関となった。