「アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
1817年、遠縁に当たるロシアのニコライ・パヴロヴィチ大公(母系をたどると曾祖母がプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]の娘[[ゾフィー・ドロテア・フォン・プロイセン|ゾフィー]])と[[婚配機密|婚配]]し、ロシア語名アレクサンドラ・フョードロヴナに改めた。アレクサンドラは義母[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]から好意を持たれていたが、宮廷を嫌った義理の姉[[エリザヴェータ・アレクセーエヴナ]]とは疎遠だった。長身ですらりとした女性で、音楽や舞踊を愛し、宮廷生活を楽しんだ。
1817年、遠縁に当たるロシアのニコライ・パヴロヴィチ大公(母系をたどると曾祖母がプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]の娘[[ゾフィー・ドロテア・フォン・プロイセン|ゾフィー]])と[[婚配機密|婚配]]し、ロシア語名アレクサンドラ・フョードロヴナに改めた。アレクサンドラは義母[[マリア・フョードロヴナ (パーヴェル1世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]から好意を持たれていたが、宮廷を嫌った義理の姉[[エリザヴェータ・アレクセーエヴナ]]とは疎遠だった。長身ですらりとした女性で、音楽や舞踊を愛し、宮廷生活を楽しんだ。


ニコライは1825年に皇帝[[ニコライ1世]]として即位し、アレクサンドラは皇后となった。絶え間ない妊娠・出産で次第に健康を害し、[[クリミア]]や[[イタリア]]へ保養に行くことが多かった。ニコライが彼女の女官{{仮リンク|バルバラ・ネリドヴァ|en|Varvara Nelidova|ru|Нелидова, Варвара Аркадьевна}}を愛妾にすると、最初は嫉妬にかられたが、のちにはバルバラと良好な関係を保った。1854年暮れ、病で重態となるが、奇跡的に回復。1855年2月にニコライ1世が急逝したのち、夫の元愛妾バルバラとともに[[ツァールスコエ・セロー]]で暮らした。年々体調は悪化し、医師から[[サンクトペテルブルク]]から南部の温暖な離宮へ移るよう忠告されていたが、慣れ親しんだ場所から離れたくないと拒否した。1860年11月、アレクサンドル宮殿で睡眠中に死去。
ニコライは1825年に皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]として即位し、アレクサンドラは皇后となった。絶え間ない妊娠・出産で次第に健康を害し、[[クリミア]]や[[イタリア]]へ保養に行くことが多かった。ニコライが彼女の女官{{仮リンク|バルバラ・ネリドヴァ|en|Varvara Nelidova|ru|Нелидова, Варвара Аркадьевна}}を愛妾にすると、最初は嫉妬にかられたが、のちにはバルバラと良好な関係を保った。1854年暮れ、病で重態となるが、奇跡的に回復。1855年2月にニコライ1世が急逝したのち、夫の元愛妾バルバラとともに[[ツァールスコエ・セロー]]で暮らした。年々体調は悪化し、医師から[[サンクトペテルブルク]]から南部の温暖な離宮へ移るよう忠告されていたが、慣れ親しんだ場所から離れたくないと拒否した。1860年11月、アレクサンドル宮殿で睡眠中に死去。


== 子女 ==
== 子女 ==

2021年6月13日 (日) 08:22時点における版

アレクサンドラ・フョードロヴナ
Александра Фёдоровна
ロシア皇后
在位 1825年12月1日 - 1855年3月2日
戴冠式 1826年9月3日、於モスクワ・ウスペンスキー大聖堂
1829年5月24日ポーランド王妃)
別称号 フィンランド大公妃
ポーランド王妃

全名 Friederike Luise Charlotte Wilhelmine
フリーデリケ・ルイーゼ・シャルロッテ・ヴィルヘルミーネ
出生 1798年7月13日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリンシャルロッテンブルク宮殿
死去 (1860-11-01) 1860年11月1日(62歳没)
ロシア帝国ツァールスコエ・セローアレクサンドロフスキー宮殿
埋葬 ロシア帝国ペテルブルク首座使徒ペトル・パウェル大聖堂
結婚 1817年7月13日 冬宮殿
配偶者 ニコライ1世
子女 一覧参照
家名 ホーエンツォレルン家
父親 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
母親 ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ
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アレクサンドラ・フョードロヴナロシア語: Александра Фёдоровна, 1798年7月13日 - 1860年11月1日)は、ロシア皇帝ニコライ1世の皇后。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世とその王妃ルイーゼの第4子(長女)。ドイツ語名はフリーデリケ・ルイーゼ・シャルロッテ・ヴィルヘルミーネ(Friederike Luise Charlotte Wilhelmine)。シャルロッテ・フォン・プロイセンCharlotte von Preußen)とも呼ばれる。

生涯

1817年、遠縁に当たるロシアのニコライ・パヴロヴィチ大公(母系をたどると曾祖母がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘ゾフィー)と婚配し、ロシア語名アレクサンドラ・フョードロヴナに改めた。アレクサンドラは義母マリア・フョードロヴナから好意を持たれていたが、宮廷を嫌った義理の姉エリザヴェータ・アレクセーエヴナとは疎遠だった。長身ですらりとした女性で、音楽や舞踊を愛し、宮廷生活を楽しんだ。

ニコライは1825年に皇帝ニコライ1世として即位し、アレクサンドラは皇后となった。絶え間ない妊娠・出産で次第に健康を害し、クリミアイタリアへ保養に行くことが多かった。ニコライが彼女の女官バルバラ・ネリドヴァ英語版ロシア語版を愛妾にすると、最初は嫉妬にかられたが、のちにはバルバラと良好な関係を保った。1854年暮れ、病で重態となるが、奇跡的に回復。1855年2月にニコライ1世が急逝したのち、夫の元愛妾バルバラとともにツァールスコエ・セローで暮らした。年々体調は悪化し、医師からサンクトペテルブルクから南部の温暖な離宮へ移るよう忠告されていたが、慣れ親しんだ場所から離れたくないと拒否した。1860年11月、アレクサンドル宮殿で睡眠中に死去。

子女

亡くなった年、1860年に撮影

皇帝夫妻の間には4男3女が生まれた。

先代
エリザヴェータ・アレクセーエヴナ
ロシア皇后
フィンランド大公妃
1825年 - 1855年
次代
マリア・アレクサンドロヴナ
先代
エリザヴェータ・アレクセーエヴナ
ポーランド王妃
1825年 - 1830年
次代
ロシア帝国の直轄化