「イリナ・アレクサンドロヴナ」の版間の差分

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'''イリナ・アレクサンドロヴナ公女'''または'''イリーナ・アレクサーンドロヴナ'''({{翻字併記|ru|'''Княжна Ирина Александровна Романова'''|Irina Alexandrovna Romanova}}, [[1895年]][[7月15日]] - [[1970年]][[2月26日]])は、[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世]]の第4皇子[[ミハイル・ニコラエヴィチ|ミハイル・ニコラエヴィチ大公]]の息子[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公]](アレクサンドル3世の従弟)と[[アレクサンドル3世]]の第1皇女[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア]]の第1子として生まれる。[[ニコライ2世]]の唯一の姪である。
'''イリナ・アレクサンドロヴナ公女'''または'''イリーナ・アレクサーンドロヴナ'''({{翻字併記|ru|'''Княжна Ирина Александровна Романова'''|Irina Alexandrovna Romanova}}, [[1895年]][[7月15日]] - [[1970年]][[2月26日]])は、[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の第4皇子[[ミハイル・ニコラエヴィチ|ミハイル・ニコラエヴィチ大公]]の息子[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公]](アレクサンドル3世の従弟)と[[アレクサンドル3世]]の第1皇女[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア]]の第1子として生まれる。[[ニコライ2世]]の唯一の姪である。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2021年6月13日 (日) 08:24時点における版

イリナ・アレクサンドロヴナ
Ирина Александровна
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
ユスポフ家
結婚式当日のイリナ・アレクサンドロヴナ(1914年)

全名 イリナ・アレクサンドロヴナ・ロマノヴァ
身位 ロシア公女
出生 (1895-07-15) 1895年7月15日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ペテルゴフ
死去 (1970-02-26) 1970年2月26日(74歳没)
フランスの旗 フランスパリ
配偶者 フェリックス・ユスポフ公爵
子女 イリナ・ユスポヴァ
父親 アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公
母親 クセニア・アレクサンドロヴナ大公女
宗教 ロシア正教会
テンプレートを表示
左からタチアナ皇女、イリナ、オリガ皇女(1909年)
父のアレクサンドル大公
イリナと彼女の6人の弟達。左からイリナ、アンドレイフョードルニキータドミトリーロスチスラフヴァシーリー

イリナ・アレクサンドロヴナ公女またはイリーナ・アレクサーンドロヴナロシア語: Княжна Ирина Александровна Романова, ラテン文字転写: Irina Alexandrovna Romanova, 1895年7月15日 - 1970年2月26日)は、ロシア皇帝ニコライ1世の第4皇子ミハイル・ニコラエヴィチ大公の息子アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公(アレクサンドル3世の従弟)とアレクサンドル3世の第1皇女クセニアの第1子として生まれる。ニコライ2世の唯一の姪である。

生涯

1914年フェリックス・ユスポフ公爵と結婚し、翌1915年一人娘イリナ・ユスポヴァをもうけた。ロシア革命が勃発して皇帝ニコライ2世が退位、ロマノフ王朝の専制政治が崩壊して民衆による皇族・貴族の迫害が始まると、イリナは母クセニア一家、祖母マリア皇太后、叔母オリガ一家と他の皇族・貴族と共にクリミアに幽閉された。イギリスの戦艦マールバラがロマノフ家とロシア貴族の救出にクリミアへ差し向けられたため、それに乗船してイギリスへ亡命、その後家族と共に1920年にパリへ移住し、50年にわたる亡命生活を16区オートゥイユ界隈で送り、同地で死去した。

外部リンク

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