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「ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ]]大公とその妃[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニヤ・アレクサンドロヴナ]]大公女の間の六男(第7子、末子)として{{仮リンク|ガッチナ宮殿|en|Gatchina Palace}}で生まれた。ヴァシーリーは皇帝[[アレクサンドル3世]]の外孫であったが、男系血統では[[ニコライ1世]]の曾孫でしかないため、兄たちと同様に[[ロシア大公一覧|ロシア大公]]の称号を許されなかった。[[ロシア革命]]後、ヴァシーリーは両親や兄姉、外祖母[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリヤ・フョードロヴナ]]皇太后らの皇族とともに[[クリミア半島|クリミア]]に監禁された。クリミアに集められた皇族たちは、皇帝一家と同様に処刑される予定だったが、1918年にドイツ軍によって解放された。翌1919年、ヴァシーリーは一族とともに[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]政府の差し向けた戦艦「[[マールバラ (戦艦)|マールバラ]]」に乗ってイギリスに亡命した。
[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ]]大公とその妃[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニヤ・アレクサンドロヴナ]]大公女の間の六男(第7子、末子)として{{仮リンク|ガッチナ宮殿|en|Gatchina Palace}}で生まれた。ヴァシーリーは皇帝[[アレクサンドル3世]]の外孫であったが、男系血統では[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の曾孫でしかないため、兄たちと同様に[[ロシア大公一覧|ロシア大公]]の称号を許されなかった。[[ロシア革命]]後、ヴァシーリーは両親や兄姉、外祖母[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリヤ・フョードロヴナ]]皇太后らの皇族とともに[[クリミア半島|クリミア]]に監禁された。クリミアに集められた皇族たちは、皇帝一家と同様に処刑される予定だったが、1918年にドイツ軍によって解放された。翌1919年、ヴァシーリーは一族とともに[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]政府の差し向けた戦艦「[[マールバラ (戦艦)|マールバラ]]」に乗ってイギリスに亡命した。


ヴァシーリーは母クセニヤとともにイギリスで暮らしたが、1920年代には単身で[[アメリカ合衆国]]に移住した。移住後はキャビン・ボーイ、造船工、株のブローカー、ワイン造醸業者、養鶏業者など職を転々とした。1980年、ヴァシーリーは兄の{{仮リンク|ドミトリー・アレクサンドロヴィチ (ロシア公)|label=ドミトリー・アレクサンドロヴィチ|en|Prince Dmitri Alexandrovich of Russia}}公から{{仮リンク|ロマノフ家協会|en|Romanov Family Association}}の総裁職を引き継ぎ、終身でその任にあった。1989年、[[カリフォルニア州]]{{仮リンク|ウッドサイド (カリフォルニア州)|label=ウッドサイド|en|Woodside, California}}で亡くなった。
ヴァシーリーは母クセニヤとともにイギリスで暮らしたが、1920年代には単身で[[アメリカ合衆国]]に移住した。移住後はキャビン・ボーイ、造船工、株のブローカー、ワイン造醸業者、養鶏業者など職を転々とした。1980年、ヴァシーリーは兄の{{仮リンク|ドミトリー・アレクサンドロヴィチ (ロシア公)|label=ドミトリー・アレクサンドロヴィチ|en|Prince Dmitri Alexandrovich of Russia}}公から{{仮リンク|ロマノフ家協会|en|Romanov Family Association}}の総裁職を引き継ぎ、終身でその任にあった。1989年、[[カリフォルニア州]]{{仮リンク|ウッドサイド (カリフォルニア州)|label=ウッドサイド|en|Woodside, California}}で亡くなった。

2021年6月13日 (日) 08:30時点における版

ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ
Василий Александрович
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
ヴァシーリー公(1923年)

称号 ロシア公
出生 (1907-07-07) 1907年7月7日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ガッチナ、ガッチナ宮殿
死去 (1989-06-23) 1989年6月23日(81歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州ウッドサイド
埋葬 1989年7月7日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンマテオ郡コルマ、セルビア人墓地
配偶者 ナタリヤ・ゴリツィン
子女 マリヤ
父親 アレクサンドル・ミハイロヴィチ
母親 クセニヤ・アレクサンドロヴナ
宗教 キリスト教正教会
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ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチロシア語: Василий Александрович, 1907年7月7日 - 1989年6月23日)は、ロシアの皇族。

生涯

アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公とその妃クセニヤ・アレクサンドロヴナ大公女の間の六男(第7子、末子)としてガッチナ宮殿英語版で生まれた。ヴァシーリーは皇帝アレクサンドル3世の外孫であったが、男系血統ではニコライ1世の曾孫でしかないため、兄たちと同様にロシア大公の称号を許されなかった。ロシア革命後、ヴァシーリーは両親や兄姉、外祖母マリヤ・フョードロヴナ皇太后らの皇族とともにクリミアに監禁された。クリミアに集められた皇族たちは、皇帝一家と同様に処刑される予定だったが、1918年にドイツ軍によって解放された。翌1919年、ヴァシーリーは一族とともにイギリス政府の差し向けた戦艦「マールバラ」に乗ってイギリスに亡命した。

ヴァシーリーは母クセニヤとともにイギリスで暮らしたが、1920年代には単身でアメリカ合衆国に移住した。移住後はキャビン・ボーイ、造船工、株のブローカー、ワイン造醸業者、養鶏業者など職を転々とした。1980年、ヴァシーリーは兄のドミトリー・アレクサンドロヴィチ英語版公からロマノフ家協会英語版の総裁職を引き継ぎ、終身でその任にあった。1989年、カリフォルニア州ウッドサイド英語版で亡くなった。

子女

1931年、ニューヨーク亡命ロシア人貴族の公爵令嬢ナタリヤ・ゴリツィン(1907年 - 1980年)と結婚した。ナタリヤとの間に1女を儲けた。

  • マリヤ(1940年 - ) - 1967年、ウィリアム・ビードルストンと結婚