「戴冠式の歌」の版間の差分

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[[1856年]]、オーストリアの音楽家ヨハン・シュトラウス2世は、[[ロシア帝国]]の鉄道会社と契約を結び、夏のシーズンには[[パヴロフスク]]駅舎で演奏会を指揮するようになった。この公演のためにパヴロフスクを訪れたヨハン2世を、ロシア皇室は盛大にもてなした。
[[1856年]]、オーストリアの音楽家ヨハン・シュトラウス2世は、[[ロシア帝国]]の鉄道会社と契約を結び、夏のシーズンには[[パヴロフスク]]駅舎で演奏会を指揮するようになった。この公演のためにパヴロフスクを訪れたヨハン2世を、ロシア皇室は盛大にもてなした。


時の皇帝[[アレクサンドル2世]]は、[[1855年]]に父帝[[ニコライ1世]]の跡を継いで即位したが、[[クリミア戦争]]のせいで[[戴冠式]]は延期となっていた。1856年9月7日、[[モスクワ]]でようやく戴冠式が挙行されることとなり、ヨハン2世もこの戴冠式と祝典行事に招待された。ヨハン2世は皇帝一家の厚意に応えて、戴冠式を祝う作品をいくつか作曲した。このワルツ『'''戴冠式の歌'''』は、アレクサンドル2世の皇后[[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|マリア・アレクサンドロヴナ]]に捧げられた作品である。
時の皇帝[[アレクサンドル2世]]は、[[1855年]]に父帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の跡を継いで即位したが、[[クリミア戦争]]のせいで[[戴冠式]]は延期となっていた。1856年9月7日、[[モスクワ]]でようやく戴冠式が挙行されることとなり、ヨハン2世もこの戴冠式と祝典行事に招待された。ヨハン2世は皇帝一家の厚意に応えて、戴冠式を祝う作品をいくつか作曲した。このワルツ『'''戴冠式の歌'''』は、アレクサンドル2世の皇后[[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|マリア・アレクサンドロヴナ]]に捧げられた作品である。


== ニューイヤーコンサート ==
== ニューイヤーコンサート ==

2021年6月13日 (日) 08:35時点における版

戴冠式の歌』(たいかんしきのうた、ドイツ語: Krönungslieder)作品184は、ヨハン・シュトラウス2世が作曲したワルツ

なお、弟のヨーゼフ・シュトラウスも、1867年にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー国王として戴冠したこと(アウスグライヒ)を祝って、「Krönungslieder」(作品226)という全く同名のワルツを作曲しているが、こちらは『戴冠の歌』として区別される。

作曲背景

ロシア皇帝アレクサンドル2世の戴冠式(1857年の絵画)

1856年、オーストリアの音楽家ヨハン・シュトラウス2世は、ロシア帝国の鉄道会社と契約を結び、夏のシーズンにはパヴロフスク駅舎で演奏会を指揮するようになった。この公演のためにパヴロフスクを訪れたヨハン2世を、ロシア皇室は盛大にもてなした。

時の皇帝アレクサンドル2世は、1855年に父帝ニコライ1世の跡を継いで即位したが、クリミア戦争のせいで戴冠式は延期となっていた。1856年9月7日、モスクワでようやく戴冠式が挙行されることとなり、ヨハン2世もこの戴冠式と祝典行事に招待された。ヨハン2世は皇帝一家の厚意に応えて、戴冠式を祝う作品をいくつか作曲した。このワルツ『戴冠式の歌』は、アレクサンドル2世の皇后マリア・アレクサンドロヴナに捧げられた作品である。

ニューイヤーコンサート

ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートへの登場は以下の通りである。

関連作品

  • 『戴冠式行進曲』(Krönungs-Marsch)op.183
    • 皇帝アレクサンドル2世に献呈。

参考文献

  • 加藤雅彦『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』日本放送出版協会NHKブックス〉、2003年12月20日。ISBN 4-14-001985-9 p.124

外部リンク