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「ミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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{{仮リンク|ドミトリー・ゴルチャコフ|en|Dmitry Gorchakov|label=ドミトリー・ペトロヴィチ・ゴルチャコフ}}の息子、[[ピョートル・ゴルチャコフ]]の弟として生まれた。1807年に[[ロシア帝国陸軍]]に入隊、[[ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年)|ロシア・ペルシャ戦争]]の1810年戦役と[[ナポレオン戦争]]の1812年から1815年までの戦役に参戦した<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Gorchakov|display=Gorchakov s. v. Prince Mikhail Dmitrievich|volume=12|page=246}}</ref>。1828年から1829年までの[[露土戦争 (1828年-1829年)|露土戦争]]では{{仮リンク|シリストラ包囲戦 (1828年)|bg|Обсада на Силистра (1828)|label=1828年のシリストラ包囲戦}}と{{仮リンク|シリストラ包囲戦 (1829年)|bg|Обсада на Силистра (1829)|label=1829年のシリストラ包囲戦}}に参戦した<ref name="EB1911" />。1830年に[[将官]]としての辞令を受けた後、[[11月蜂起]]の鎮圧に関わり、1831年2月25日の{{仮リンク|オルシュインカ・グロホフスカの戦い|en|Olszynka Grochowska}}で負傷したほか、5月の{{仮リンク|オストロウェンカの戦い (1831年)|en|Battle of Ostrołęka (1831)|label=オストロウェンカの戦い}}と9月の{{仮リンク|ワルシャワの戦い (1831年)|en|Battle of Warsaw (1831)|label=ワルシャワの戦い}}で軍功を上げて中将に昇進した<ref name="EB1911" />。1846年、ポーランドの軍総督に任命され、1849年に[[ハンガリー革命 (1848年)|1848年ハンガリー革命]]の鎮圧に関わった<ref name="EB1911" />。1852年には皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の{{仮リンク|高級副官|en|Adjutant general}}およびロシア陸軍の参謀長になっており、同年に[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|初代ウェリントン公爵]]が死去したときはその葬儀にロシア軍の代表として参列した<ref name="EB1911" />。


1853年にロシアが[[オスマン帝国]]に宣戦布告して[[クリミア戦争]]が勃発すると、[[最高指揮官]]としてロシア軍を率いて{{仮リンク|ドナウ川戦役 (1853年-1854年)|ru|Дунайская кампания Крымской войны|label=モルダヴィアとワラキアに進駐}}、翌1854年に[[ドナウ川]]を渡河して3月に{{仮リンク|シリストラ包囲戦 (1854年)|en|Siege of Silistra|label=シリストラを包囲}}した<ref name="EB1911" />。4月に更迭され、{{仮リンク|イヴァン・パスケヴィチ|en|Ivan Paskevich}}が後任となったが、パスケヴィチがわずか2か月後の6月8日に辞任したためゴルチャコフが復帰した<ref name="EB1911" />。その後、ゴルチャコフは7月にシリストラの包囲を解いてドナウ川を渡り、8月には本国へ撤退した<ref name="EB1911" />。1855年、[[アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・メーンシコフ]]の後任として[[セヴァストポリ]]のロシア軍総指揮官に任命された<ref name="EB1911" />。その後はセヴァストポリを放棄してその北に撤退したが、セヴァストポリの北の陣地を終戦まで守り切った<ref name="EB1911" />。1856年、辞任したパスケヴィチの後任として{{仮リンク|ポーランドのナメストニク|en|Namiestnik of Poland}}に任命され<ref name="EB1911" />、1861年5月30日に[[ワルシャワ]]で死去した<ref name="EB1911" />。生前の望みに従い、[[セヴァストポリ]]に埋葬された<ref name="EB1911" />。
1853年にロシアが[[オスマン帝国]]に宣戦布告して[[クリミア戦争]]が勃発すると、[[最高指揮官]]としてロシア軍を率いて{{仮リンク|ドナウ川戦役 (1853年-1854年)|ru|Дунайская кампания Крымской войны|label=モルダヴィアとワラキアに進駐}}、翌1854年に[[ドナウ川]]を渡河して3月に{{仮リンク|シリストラ包囲戦 (1854年)|en|Siege of Silistra|label=シリストラを包囲}}した<ref name="EB1911" />。4月に更迭され、{{仮リンク|イヴァン・パスケヴィチ|en|Ivan Paskevich}}が後任となったが、パスケヴィチがわずか2か月後の6月8日に辞任したためゴルチャコフが復帰した<ref name="EB1911" />。その後、ゴルチャコフは7月にシリストラの包囲を解いてドナウ川を渡り、8月には本国へ撤退した<ref name="EB1911" />。1855年、[[アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・メーンシコフ]]の後任として[[セヴァストポリ]]のロシア軍総指揮官に任命された<ref name="EB1911" />。その後はセヴァストポリを放棄してその北に撤退したが、セヴァストポリの北の陣地を終戦まで守り切った<ref name="EB1911" />。1856年、辞任したパスケヴィチの後任として{{仮リンク|ポーランドのナメストニク|en|Namiestnik of Poland}}に任命され<ref name="EB1911" />、1861年5月30日に[[ワルシャワ]]で死去した<ref name="EB1911" />。生前の望みに従い、[[セヴァストポリ]]に埋葬された<ref name="EB1911" />。

2021年6月13日 (日) 08:37時点における版

ミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ
ミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ公、ヤン・クサヴェリ・カニエフスキ英語版作、1860年。
生誕1793年2月8日
ポーランド・リトアニア共和国ワルシャワ
死没1861年5月30日
ロシア帝国 ロシア帝国ポーランド立憲王国ワルシャワ
所属組織ロシア帝国 ロシア帝国
部門ロシア帝国 ロシア帝国陸軍
軍歴1807年 - 1861年
最終階級砲兵大将英語版
戦闘ナポレオン戦争
露土戦争
11月蜂起
クリミア戦争
受賞聖アンドレイ勲章英語版
聖ゲオルギー勲章英語版
聖ウラジーミル勲章英語版

ミハイル・ドミートリエヴィチ・ゴルチャコフ公(ロシア語: Михаи́л Дми́триевич Горчако́в1793年2月8日 - 1861年5月30日グレゴリオ暦))は、ロシア帝国の貴族、砲兵将校。クリミア戦争で軍を率いた後、1856年から死去までポーランドのナメストニク英語版を務めた。ゴルチャコフ家英語版の出身。

生涯

ドミトリー・ペトロヴィチ・ゴルチャコフ英語版の息子、ピョートル・ゴルチャコフの弟として生まれた。1807年にロシア帝国陸軍に入隊、ロシア・ペルシャ戦争の1810年戦役とナポレオン戦争の1812年から1815年までの戦役に参戦した[1]。1828年から1829年までの露土戦争では1828年のシリストラ包囲戦ブルガリア語版1829年のシリストラ包囲戦ブルガリア語版に参戦した[1]。1830年に将官としての辞令を受けた後、11月蜂起の鎮圧に関わり、1831年2月25日のオルシュインカ・グロホフスカの戦い英語版で負傷したほか、5月のオストロウェンカの戦い英語版と9月のワルシャワの戦い英語版で軍功を上げて中将に昇進した[1]。1846年、ポーランドの軍総督に任命され、1849年に1848年ハンガリー革命の鎮圧に関わった[1]。1852年には皇帝ニコライ1世高級副官英語版およびロシア陸軍の参謀長になっており、同年に初代ウェリントン公爵が死去したときはその葬儀にロシア軍の代表として参列した[1]

1853年にロシアがオスマン帝国に宣戦布告してクリミア戦争が勃発すると、最高指揮官としてロシア軍を率いてモルダヴィアとワラキアに進駐ロシア語版、翌1854年にドナウ川を渡河して3月にシリストラを包囲英語版した[1]。4月に更迭され、イヴァン・パスケヴィチ英語版が後任となったが、パスケヴィチがわずか2か月後の6月8日に辞任したためゴルチャコフが復帰した[1]。その後、ゴルチャコフは7月にシリストラの包囲を解いてドナウ川を渡り、8月には本国へ撤退した[1]。1855年、アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・メーンシコフの後任としてセヴァストポリのロシア軍総指揮官に任命された[1]。その後はセヴァストポリを放棄してその北に撤退したが、セヴァストポリの北の陣地を終戦まで守り切った[1]。1856年、辞任したパスケヴィチの後任としてポーランドのナメストニク英語版に任命され[1]、1861年5月30日にワルシャワで死去した[1]。生前の望みに従い、セヴァストポリに埋葬された[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Gorchakov s. v. Prince Mikhail Dmitrievich" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 12 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 246.