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Coat of arms Kaspii Oblast 1843.jpg; Coat of arms of Shamakha Governorate 1858.svg
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[コーカサス戦争]]中の[[1840年]]4月22日 ([[ユリウス暦]]10日) に[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世]]が承認した、『[[南コーカサス|ザカフカース]][[クライ (ロシア)|地方]]管理の為の機関』と称する行政改革に関する法律に基づき、カスピ州は設置された<ref>Полное собрание законов Российской империи, собрание 2-е, т. XV, ст. 13368.</ref>。
[[コーカサス戦争]]中の[[1840年]]4月22日 ([[ユリウス暦]]10日) に[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]が承認した、『[[南コーカサス|ザカフカース]][[クライ (ロシア)|地方]]管理の為の機関』と称する行政改革に関する法律に基づき、カスピ州は設置された<ref>Полное собрание законов Российской империи, собрание 2-е, т. XV, ст. 13368.</ref>。


行政ならびに領土機構に関する新しい体制に拠ると、カスピ州は次の7つの郡から構成される。{{仮リンク|シルヴァン|en|Shirvan}}郡、{{仮リンク|カラバフ|en|Karabakh}}郡、{{仮リンク|ヌハ郡|en|Nukhinsky Uyezd|label=シャキ郡}}、[[タリシュ人|タリシュ]]郡、{{仮リンク|バクー郡|ru|Бакинский уезд}}といった現在の[[アゼルバイジャン]]にほぼ相当する地域だけではなく、コーカサス戦争でロシアからの独立闘争が繰り広げられているデルベント軍管区内にある (現在は[[ロシア連邦]]の[[ダゲスタン共和国]]領内にある) [[デルベント]]郡<ref>Глава третья. Дербентъ отъ 1806 до 1860 г., стр. 197. // Исторія города Дербента. Къ столѣтію присоединенія Дербента къ Россійской Имперіи. 1806—1906. Составилъ Е. И. Козубскій, дѣйствительный членъ-секретарь Дагестанскаго статистическаго комитета. Съ 26 рисунками. Темиръ-Ханъ-Шура: «Русская типографія» В. М. Сорокина, 1906, 468 стр.</ref>や (アゼルバイジャン北部にあるが、イラン系の{{仮リンク|タート人|en|Tat people (Caucasus)}}が最大民族となっている) {{仮リンク|クバ郡|ru|Кубинский уезд}}がカスピ州に帰属することになった。カスピ州は、[[アルメニア州]]に属し、[[アルメニア人]]が多く住むカラバフ郡や多くの民族が入り乱れる様に住んでいる南ダゲスタンの地域も県域に収め<ref>Акты, собранные Кавказской археографической комиссией. Том IX.</ref>、古代の{{仮リンク|アッラーン|en|Arran (Caucasus)}}の領域を包含することになった<ref>По советской терминологии: «Северного Азербайджана».</ref>。
行政ならびに領土機構に関する新しい体制に拠ると、カスピ州は次の7つの郡から構成される。{{仮リンク|シルヴァン|en|Shirvan}}郡、{{仮リンク|カラバフ|en|Karabakh}}郡、{{仮リンク|ヌハ郡|en|Nukhinsky Uyezd|label=シャキ郡}}、[[タリシュ人|タリシュ]]郡、{{仮リンク|バクー郡|ru|Бакинский уезд}}といった現在の[[アゼルバイジャン]]にほぼ相当する地域だけではなく、コーカサス戦争でロシアからの独立闘争が繰り広げられているデルベント軍管区内にある (現在は[[ロシア連邦]]の[[ダゲスタン共和国]]領内にある) [[デルベント]]郡<ref>Глава третья. Дербентъ отъ 1806 до 1860 г., стр. 197. // Исторія города Дербента. Къ столѣтію присоединенія Дербента къ Россійской Имперіи. 1806—1906. Составилъ Е. И. Козубскій, дѣйствительный членъ-секретарь Дагестанскаго статистическаго комитета. Съ 26 рисунками. Темиръ-Ханъ-Шура: «Русская типографія» В. М. Сорокина, 1906, 468 стр.</ref>や (アゼルバイジャン北部にあるが、イラン系の{{仮リンク|タート人|en|Tat people (Caucasus)}}が最大民族となっている) {{仮リンク|クバ郡|ru|Кубинский уезд}}がカスピ州に帰属することになった。カスピ州は、[[アルメニア州]]に属し、[[アルメニア人]]が多く住むカラバフ郡や多くの民族が入り乱れる様に住んでいる南ダゲスタンの地域も県域に収め<ref>Акты, собранные Кавказской археографической комиссией. Том IX.</ref>、古代の{{仮リンク|アッラーン|en|Arran (Caucasus)}}の領域を包含することになった<ref>По советской терминологии: «Северного Азербайджана».</ref>。

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Каспийская область
カスピ州
ロシア帝国の旗 ロシア帝国の県
1840年 - 1846年
 

カスピ州の紋章

紋章

政庁所在地 シェマハ英語版
歴史
 - 設置 1840年4月10日
 - 廃止 1846年12月14日

カスピ州(ロシア語:Каспийская область)は、1840年から1846年までカフカース地域に設置されたロシア帝国行政区画である。州都はシェマハ英語版

歴史[編集]

コーカサス戦争中の1840年4月22日 (ユリウス暦10日) にロシア皇帝ニコライ1世が承認した、『ザカフカース地方管理の為の機関』と称する行政改革に関する法律に基づき、カスピ州は設置された[1]

行政ならびに領土機構に関する新しい体制に拠ると、カスピ州は次の7つの郡から構成される。シルヴァン英語版郡、カラバフ英語版郡、シャキ郡英語版タリシュ郡、バクー郡ロシア語版といった現在のアゼルバイジャンにほぼ相当する地域だけではなく、コーカサス戦争でロシアからの独立闘争が繰り広げられているデルベント軍管区内にある (現在はロシア連邦ダゲスタン共和国領内にある) デルベント[2]や (アゼルバイジャン北部にあるが、イラン系のタート人が最大民族となっている) クバ郡ロシア語版がカスピ州に帰属することになった。カスピ州は、アルメニア州に属し、アルメニア人が多く住むカラバフ郡や多くの民族が入り乱れる様に住んでいる南ダゲスタンの地域も県域に収め[3]、古代のアッラーン英語版の領域を包含することになった[4]

1840年4月10日に公布された法律は地方行政のシステムに重要な変更をもたらした。以前の行政機関は、ロシア帝国内地の州と同様の組織の、管区といった新しいものに置き換えられた。

カスピ海州の統治機関は、地域を管轄する責任者、地域の自治会、州財務部、国有財産管理部、刑事と民事を管轄する裁判所、検察部から構成されていた。統治機関の構成には、知事の直接監督下に置かれている天然痘の種痘に関する委員会も含まれていた。

同年12月25日、シェマハにおいて、ロシア帝国国家評議会議員、上院議員ロシア語版および枢密院顧問ロシア語版を務めるパーヴェル・ガンロシア語版男爵は、カスピ州設立の記念祝賀会を開いた[5]。翌1841年1月1日までに、あらゆる場所で改革が実施された[6]

1846年12月14日の緊急勅令により、ザカフカースの行政区画制度が改正された。ザカフカース地域が、チフリス県ロシア語版クタイス県ロシア語版シェマハ県ロシア語版およびデルベント県ロシア語版の4つの行政区画に再編されることになった。カスピ海州については、廃止されることになった。

1918年5月28日、旧カスピ州の南部に、アゼルバイジャン人による国家が建国された。その正式な国名は「アゼルバイジャン民主共和国」である。

歴代知事[編集]

3人の知事が在任している[7]

任期 名前 軍の階級
1841年-1842年 ニコライ・アシェベルクロシア語版 大佐
1842年-1844年 アポロン・イヴァノフロシア語版 少将
1844年-1846年 アレクサンドル・ヴランゲリロシア語版男爵 就任時は大佐
1845年に少将

脚注[編集]

  1. ^ Полное собрание законов Российской империи, собрание 2-е, т. XV, ст. 13368.
  2. ^ Глава третья. Дербентъ отъ 1806 до 1860 г., стр. 197. // Исторія города Дербента. Къ столѣтію присоединенія Дербента къ Россійской Имперіи. 1806—1906. Составилъ Е. И. Козубскій, дѣйствительный членъ-секретарь Дагестанскаго статистическаго комитета. Съ 26 рисунками. Темиръ-Ханъ-Шура: «Русская типографія» В. М. Сорокина, 1906, 468 стр.
  3. ^ Акты, собранные Кавказской археографической комиссией. Том IX.
  4. ^ По советской терминологии: «Северного Азербайджана».
  5. ^ Документы по истории Баку. 1810—1917. — Баку, 1978, с. 68—69
  6. ^ Мильман А. Ш. Политический строй Азербайджана в XIX—начале XX веков (административный аппарат и суд, формы и методы колониального управления). — Баку, 1966, с. 111.
  7. ^ Ourbaku.com