コンテンツにスキップ

「アラスカ購入」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎購入の影響: ここに載せるような画像ではないでしょう
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)) - log
1行目: 1行目:
{{出典の明記|date=2011年10月}}
{{出典の明記|date=2011年10月}}
[[File:Czar's Ratification of the Alaska Purchase Treaty - NARA - 299810.pdf|250px|thumb|right|アラスカの売却に関する[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]の批准書(巻頭)。このページに署名はない。]]
[[File:Czar's Ratification of the Alaska Purchase Treaty - NARA - 299810.pdf|250px|thumb|right|アラスカの売却に関する[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の批准書(巻頭)。このページに署名はない。]]
'''アラスカ購入'''(アラスカこうにゅう、{{Lang-en|Alaska Purchase}})またはアラスカの売却({{Lang-ru|продажа Аляски}})とは、[[1867年]]に[[アメリカ合衆国]]と[[ロシア帝国]]の両政府間で行われた取引であり、その結果としてロシアの[[植民地]]であった[[アラスカ州|アラスカ]]([[ロシア領アメリカ]])をアメリカ合衆国が買い取ることになった。
'''アラスカ購入'''(アラスカこうにゅう、{{Lang-en|Alaska Purchase}})またはアラスカの売却({{Lang-ru|продажа Аляски}})とは、[[1867年]]に[[アメリカ合衆国]]と[[ロシア帝国]]の両政府間で行われた取引であり、その結果としてロシアの[[植民地]]であった[[アラスカ州|アラスカ]]([[ロシア領アメリカ]])をアメリカ合衆国が買い取ることになった。


6行目: 6行目:
[[ロシア人]]は18世紀末から、[[毛皮]]獣の[[狩猟]]や交易のために[[露米会社]]を設立して[[北米大陸|北アメリカ大陸]]太平洋岸一帯に進出しており、一部は[[カリフォルニア州]]にまで達していた。その後、1853年から1856年にかけての[[クリミア戦争]]によって大打撃を被り、経済的に疲弊したうえに毛皮獣の枯渇が進み、アラスカの植民地経営が行き詰まるようになった。そのため、ロシアはアラスカを売却することにしたが、クリミア戦争でも敵対した[[イギリス]]に売却することを避け、アメリカ合衆国を取引の相手に選んだ。
[[ロシア人]]は18世紀末から、[[毛皮]]獣の[[狩猟]]や交易のために[[露米会社]]を設立して[[北米大陸|北アメリカ大陸]]太平洋岸一帯に進出しており、一部は[[カリフォルニア州]]にまで達していた。その後、1853年から1856年にかけての[[クリミア戦争]]によって大打撃を被り、経済的に疲弊したうえに毛皮獣の枯渇が進み、アラスカの植民地経営が行き詰まるようになった。そのため、ロシアはアラスカを売却することにしたが、クリミア戦争でも敵対した[[イギリス]]に売却することを避け、アメリカ合衆国を取引の相手に選んだ。


ロシアは1859年にアメリカに売却意向を打診していたが、[[南北戦争]]の影響もあり、その時点での進展はなかった。1867年3月、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]は在米外交官 Eduard de Stoeckl に命じ、[[アメリカ合衆国国務長官]][[ウィリアム・スワード|ウィリアム・H・スワード]]と交渉を行わせた。
ロシアは1859年にアメリカに売却意向を打診していたが、[[南北戦争]]の影響もあり、その時点での進展はなかった。1867年3月、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]は在米外交官 Eduard de Stoeckl に命じ、[[アメリカ合衆国国務長官]][[ウィリアム・スワード|ウィリアム・H・スワード]]と交渉を行わせた。


その結果、[[3月30日]]午前4時にアメリカがアラスカをロシアから購入する[[条約]]が調印された<ref>{{cite journal|url=http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/7925/1/KJ00000033979.pdf|title=The Sale of Russian America to the United States|last=Gibson|first=James R|work=Acta Slavica Iaponica|volume=1|publisher=Collegivm Slavicvm Academiae Hokkaido|page=22|accessdate=2016-10-19}}</ref>。購入価格は720万[[アメリカ合衆国ドル|USドル]](2016年現在の貨幣価値で1億2300万ドル{{Inflation-fn|US|df=yes|r=0}}。1871年 円-USドルの[[為替]]が開始した時の相場は1ドル1円)で、面積単価は約2[[セント (通貨)|セント]]/[[エーカー#アメリカでの定義|エーカー]](1エーカー=約4047平方メートル)だった。
その結果、[[3月30日]]午前4時にアメリカがアラスカをロシアから購入する[[条約]]が調印された<ref>{{cite journal|url=http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/7925/1/KJ00000033979.pdf|title=The Sale of Russian America to the United States|last=Gibson|first=James R|work=Acta Slavica Iaponica|volume=1|publisher=Collegivm Slavicvm Academiae Hokkaido|page=22|accessdate=2016-10-19}}</ref>。購入価格は720万[[アメリカ合衆国ドル|USドル]](2016年現在の貨幣価値で1億2300万ドル{{Inflation-fn|US|df=yes|r=0}}。1871年 円-USドルの[[為替]]が開始した時の相場は1ドル1円)で、面積単価は約2[[セント (通貨)|セント]]/[[エーカー#アメリカでの定義|エーカー]](1エーカー=約4047平方メートル)だった。

2021年6月13日 (日) 08:47時点における版

アラスカの売却に関するロシア皇帝アレクサンドル2世の批准書(巻頭)。このページに署名はない。

アラスカ購入(アラスカこうにゅう、英語: Alaska Purchase)またはアラスカの売却(ロシア語: продажа Аляски)とは、1867年アメリカ合衆国ロシア帝国の両政府間で行われた取引であり、その結果としてロシアの植民地であったアラスカロシア領アメリカ)をアメリカ合衆国が買い取ることになった。

購入への経緯

ロシア人は18世紀末から、毛皮獣の狩猟や交易のために露米会社を設立して北アメリカ大陸太平洋岸一帯に進出しており、一部はカリフォルニア州にまで達していた。その後、1853年から1856年にかけてのクリミア戦争によって大打撃を被り、経済的に疲弊したうえに毛皮獣の枯渇が進み、アラスカの植民地経営が行き詰まるようになった。そのため、ロシアはアラスカを売却することにしたが、クリミア戦争でも敵対したイギリスに売却することを避け、アメリカ合衆国を取引の相手に選んだ。

ロシアは1859年にアメリカに売却意向を打診していたが、南北戦争の影響もあり、その時点での進展はなかった。1867年3月、ロシア皇帝アレクサンドル2世は在米外交官 Eduard de Stoeckl に命じ、アメリカ合衆国国務長官ウィリアム・H・スワードと交渉を行わせた。

その結果、3月30日午前4時にアメリカがアラスカをロシアから購入する条約が調印された[1]。購入価格は720万USドル(2016年現在の貨幣価値で1億2300万ドル[2]。1871年 円-USドルの為替が開始した時の相場は1ドル1円)で、面積単価は約2セント/エーカー(1エーカー=約4047平方メートル)だった。

購入の影響

アラスカ購入に使用された額面720万USドルの小切手[2]

この条約は4月9日アメリカ合衆国上院で批准されたものの、当初スワードは「巨大な保冷庫を購入した」などとアメリカ国民に非難された[3][4]

しかし、1896年にはアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明したほか、軍事上においてもアラスカの位置がベーリング海峡北極海を挟んでロシアや日本と直接国境を接することから、特に第二次世界大戦では日本と、冷戦期ではソ連との間で発生した軍事衝突では極めて重要な役割を果たすなど、スワードのアラスカ購入に関する評価は上がっている[5]

現在、アラスカ州ではアラスカ購入に関して2つの記念日が設けられている。1つは10月18日で、アラスカのフォートシトカで領土移譲式が執り行われ、アラスカが名実ともにアメリカ領になった1867年10月18日に基づく。もう1つはそのおよそ半年前、ロシアとアメリカ購入の条約調印にのぞんだ国務長官を記念するスワード・デーである。日付は条約調印が行われた同年3月30日にちなみ、3月の最終月曜日に制定されている。

一方、アラスカを放棄したロシア帝国は毛皮の代わりに綿織物の材料となる綿花に注目したため、ロシアは関心をアラスカから中央アジアに向けた。その結果、ロシアは東トルキスタン新疆)への支配を強めつつあった中国(清朝)と中央アジアで衝突を起こすことになった。

脚注

  1. ^ Gibson, James R. “The Sale of Russian America to the United States”. Acta Slavica Iaponica (Collegivm Slavicvm Academiae Hokkaido) 1: 22. http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/7925/1/KJ00000033979.pdf 2016年10月19日閲覧。. 
  2. ^ a b Federal Reserve Bank of Minneapolis Community Development Project. "Consumer Price Index (estimate) 1800–" (英語). Federal Reserve Bank of Minneapolis. 2019年1月2日閲覧
  3. ^ Welch, Richard E (1958). American Public Opinion and the Purchase of Russian America. 17. pp. 481-494. doi:10.2307/3001132. http://www.jstor.org/stable/3001132 2016年10月19日閲覧。. 
  4. ^ Kushner, Howard I (1975). “Seward's Folly'?: American Commerce in Russian America and the Alaska Purchase”. California Historical Quarterly (University of California Press) 54 (1 (Spring)): 26. http://www.jstor.org/stable/25157541 2016年10月19日閲覧。. 
  5. ^ British Columbia and Confederation”. Historica Canada (2014年12月19日). 2016年10月19日閲覧。

関連項目