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皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の六男[[パーヴェル・アレクサンドロヴィチ|パーヴェル]]大公と、平民女性{{仮リンク|オリガ・パーリィ|label=オリガ・カルノヴィチ|en|Princess Olga Paley}}の長男として[[サンクトペテルブルク]]に生まれた。パーヴェル大公は1893年にオリガと恋仲になったが、死別した先妻[[アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ]]大公妃との間に2人の嫡出子{{仮リンク|マリア・パヴロヴナ (セーデルマンランド公爵夫人)|label=マリヤ|en|Grand Duchess Maria Pavlovna of Russia (1890–1958)}}と[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー]]がいた上、[[ニコライ2世]]に[[貴賤結婚]]を許されず、[[パリ]]に亡命して1904年に結婚した。オリガと子供達は[[バイエルン王国]]の摂政[[ルイトポルト・フォン・バイエルン|ルーイトポルト]]公によってホーエンフェルゼン伯爵(伯爵夫人)に叙せられた。後にパーヴェル大公一家は[[ロマノフ家]]と和解して帰国し、[[ツァールスコエ・セロー]]に居を構え、1915年にニコライ2世よりオリガと子供達に対してパーリィ公の称号および殿下の敬称が与えられた。 |
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パーリィは[[サンクトペテルブルク]]の貴族士官学校を卒業後、ロシア帝国陸軍に入隊し[[第一次世界大戦]]では勲功を立てて、[[聖アンナ勲章]]を受章した。またパーリィは10代の頃から詩作に早熟な才能を示し、2冊の詩集を出版したり(1916年と1918年)、いくつかの[[戯曲]]と[[エッセイ]]を著している。また、[[コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)|コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ]]大公が主役を演じた[[フランス語]]の劇「ユダヤ人の王」の翻訳者でもあった。しかしパーリィの詩才は、[[ロシア革命]]において彼を破滅に追い込むことになった。パーリィは[[ロシア臨時政府]]首班の[[アレクサンドル・ケレンスキー]]を揶揄した詩を発表したため、1917年の夏に政府によって自宅軟禁を命じられた。さらに[[10月革命]]によって[[ソビエト連邦|ソヴィエト政権]]が成立すると、ロマノフ家のメンバーであるパーリィは危険な立場に陥り、1918年3月[[ボリシェヴィキ]]によって逮捕・拘禁された。 |
パーリィは[[サンクトペテルブルク]]の貴族士官学校を卒業後、ロシア帝国陸軍に入隊し[[第一次世界大戦]]では勲功を立てて、[[聖アンナ勲章]]を受章した。またパーリィは10代の頃から詩作に早熟な才能を示し、2冊の詩集を出版したり(1916年と1918年)、いくつかの[[戯曲]]と[[エッセイ]]を著している。また、[[コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ (ロシア大公)|コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ]]大公が主役を演じた[[フランス語]]の劇「ユダヤ人の王」の翻訳者でもあった。しかしパーリィの詩才は、[[ロシア革命]]において彼を破滅に追い込むことになった。パーリィは[[ロシア臨時政府]]首班の[[アレクサンドル・ケレンスキー]]を揶揄した詩を発表したため、1917年の夏に政府によって自宅軟禁を命じられた。さらに[[10月革命]]によって[[ソビエト連邦|ソヴィエト政権]]が成立すると、ロマノフ家のメンバーであるパーリィは危険な立場に陥り、1918年3月[[ボリシェヴィキ]]によって逮捕・拘禁された。 |
2021年6月13日 (日) 08:49時点における版
ウラジーミル・パヴロヴィチ・パーリィ Владимир Павлович Палей | |
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称号 | パーリィ公 |
出生 |
1897年1月9日 |
死去 |
1918年7月18日(21歳没) アラパエフスク |
家名 | ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 |
父親 | パーヴェル・アレクサンドロヴィチ |
母親 | オリガ・カルノヴィチ |
ウラジーミル・パヴロヴィチ・パーリィ公爵(ロシア語: Владимир Павлович Палей, ラテン文字転写: Vladimir Pavlovich Paley, 1897年1月9日 - 1918年7月18日)は、帝政ロシア末期の詩人。
生涯
皇帝アレクサンドル2世の六男パーヴェル大公と、平民女性オリガ・カルノヴィチの長男としてサンクトペテルブルクに生まれた。パーヴェル大公は1893年にオリガと恋仲になったが、死別した先妻アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ大公妃との間に2人の嫡出子マリヤとドミトリーがいた上、ニコライ2世に貴賤結婚を許されず、パリに亡命して1904年に結婚した。オリガと子供達はバイエルン王国の摂政ルーイトポルト公によってホーエンフェルゼン伯爵(伯爵夫人)に叙せられた。後にパーヴェル大公一家はロマノフ家と和解して帰国し、ツァールスコエ・セローに居を構え、1915年にニコライ2世よりオリガと子供達に対してパーリィ公の称号および殿下の敬称が与えられた。
パーリィはサンクトペテルブルクの貴族士官学校を卒業後、ロシア帝国陸軍に入隊し第一次世界大戦では勲功を立てて、聖アンナ勲章を受章した。またパーリィは10代の頃から詩作に早熟な才能を示し、2冊の詩集を出版したり(1916年と1918年)、いくつかの戯曲とエッセイを著している。また、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公が主役を演じたフランス語の劇「ユダヤ人の王」の翻訳者でもあった。しかしパーリィの詩才は、ロシア革命において彼を破滅に追い込むことになった。パーリィはロシア臨時政府首班のアレクサンドル・ケレンスキーを揶揄した詩を発表したため、1917年の夏に政府によって自宅軟禁を命じられた。さらに10月革命によってソヴィエト政権が成立すると、ロマノフ家のメンバーであるパーリィは危険な立場に陥り、1918年3月ボリシェヴィキによって逮捕・拘禁された。
ヴャトカ、エカテリンブルク、アラパエフスクを転々とした後、1918年7月18日にパーリィはアラパエフスク近郊で、コンスタンチン公、イーゴリ公、イオアン公らの皇族と共に銃殺刑に処せられ、遺体は廃坑に埋められた。後にパーリィらの遺体は掘り起こされて中国に送られ、北京の正教会墓地に埋葬されたが、文化大革命の時代に破壊された。同父母妹にイリナとナタリアがおり、ナタリアは後にフランスでファッションモデル・女優として人気を博した。
関連図書
- 1997年アンドレイ・バラノフスキー(Andrey Baranovsky)によってロシア語の伝記が書かれる。2004年(Jorge F. Saenz)によって英語、ロシア語の伝記“A Poet Among The Romanovs”が書かれた。
- 手塚治虫監修による「世界の歴史第12巻 はるかなる大地の叫び ロシア革命」(中央公論社)には、ワンシーンであるが、ウラジーミル・パーリィが登場する。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、ウラジーミル・パーリィに関するカテゴリがあります。