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== 生涯 ==
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1905年12月5日[[パリ]]に生まれた。父は、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[ツァーリ|皇帝]][[アレクサンドル2世]]の第6皇子[[パーヴェル・アレクサンドロヴィチ|パーヴェル大公]]。母は{{仮リンク|オリガ・パーレイ|en|Princess Olga Paley}}。両親は身分の違う[[貴賤結婚]]であったため、皇帝[[ニコライ2世]]の勅許を得られずロシアを出た。ナタリーが誕生した頃は、フランスで暮らしていた。ナタリーの誕生に先立つ[[1904年]]に母オリガは[[バイエルン王国]]から、ホーエンフェルゼン[[伯爵]]夫人の称号を与えられたため、'''ナターリア・パヴロヴナ・ホーエンフェルゼン'''伯爵令嬢({{lang|la|'''Natalia Pavlovna Hohenfelsen'''}})を名乗る。ナタリーには兄[[ウラジーミル・パーリィ|ウラジーミル]]と姉[[:en:Irina Paley|イリーナ]]がいた。また、{{仮リンク|マリア・パヴロヴナ (セーデルマンランド公爵夫人)|label=マリア大公女|en|Grand Duchess Maria Pavlovna of Russia (1890–1958)}}と、 [[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]暗殺の実行犯として知られる[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー大公]]は異母兄姉にあたる。
1905年12月5日[[パリ]]に生まれた。父は、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[ツァーリ|皇帝]][[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の第6皇子[[パーヴェル・アレクサンドロヴィチ|パーヴェル大公]]。母は{{仮リンク|オリガ・パーレイ|en|Princess Olga Paley}}。両親は身分の違う[[貴賤結婚]]であったため、皇帝[[ニコライ2世]]の勅許を得られずロシアを出た。ナタリーが誕生した頃は、フランスで暮らしていた。ナタリーの誕生に先立つ[[1904年]]に母オリガは[[バイエルン王国]]から、ホーエンフェルゼン[[伯爵]]夫人の称号を与えられたため、'''ナターリア・パヴロヴナ・ホーエンフェルゼン'''伯爵令嬢({{lang|la|'''Natalia Pavlovna Hohenfelsen'''}})を名乗る。ナタリーには兄[[ウラジーミル・パーリィ|ウラジーミル]]と姉[[:en:Irina Paley|イリーナ]]がいた。また、{{仮リンク|マリア・パヴロヴナ (セーデルマンランド公爵夫人)|label=マリア大公女|en|Grand Duchess Maria Pavlovna of Russia (1890–1958)}}と、 [[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]暗殺の実行犯として知られる[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー大公]]は異母兄姉にあたる。


その後、パーヴェル大公夫妻は、[[ロマノフ家]]と和解しロシアに帰国が適った。大公一家は帰国後、[[ツァールスコエ・セロー]]に住み、[[1915年]]にニコライ2世からオリガと3人の子に対して改めてパーリィ[[公爵]]の称号と殿下の敬称が与えられ、ナタリーは、'''ナターリア・パヴロヴナ・パーリィ'''[[公爵]]令嬢({{翻字併記|ru|'''Наталья Павловна Палей'''|'''Natalia Pavlovna Paley'''}})を名乗ることとなる。
その後、パーヴェル大公夫妻は、[[ロマノフ家]]と和解しロシアに帰国が適った。大公一家は帰国後、[[ツァールスコエ・セロー]]に住み、[[1915年]]にニコライ2世からオリガと3人の子に対して改めてパーリィ[[公爵]]の称号と殿下の敬称が与えられ、ナタリーは、'''ナターリア・パヴロヴナ・パーリィ'''[[公爵]]令嬢({{翻字併記|ru|'''Наталья Павловна Палей'''|'''Natalia Pavlovna Paley'''}})を名乗ることとなる。

2021年6月13日 (日) 08:50時点における版

ナタリー・パレ
ナタリー・パレ
本名 ナターリア・パヴロヴナ・パーリィ
生年月日 (1905-12-05) 1905年12月5日
没年月日 (1981-12-27) 1981年12月27日(76歳没)
出生地 フランスの旗 フランス パリ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク
配偶者 ルシアン・カミーユ・ルロン
ジョン・チャップマン・ウィルソン
著名な家族 父:パーヴェル大公
母:オリガ・パーレイ英語版
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ナタリー・パレNatalie Paley, 1905年12月5日1981年12月27日)は、フランス出身のファッションモデル女優

生涯

1905年12月5日パリに生まれた。父は、ロシア皇帝アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル大公。母はオリガ・パーレイ英語版。両親は身分の違う貴賤結婚であったため、皇帝ニコライ2世の勅許を得られずロシアを出た。ナタリーが誕生した頃は、フランスで暮らしていた。ナタリーの誕生に先立つ1904年に母オリガはバイエルン王国から、ホーエンフェルゼン伯爵夫人の称号を与えられたため、ナターリア・パヴロヴナ・ホーエンフェルゼン伯爵令嬢(Natalia Pavlovna Hohenfelsen)を名乗る。ナタリーには兄ウラジーミルと姉イリーナがいた。また、マリア大公女と、 ラスプーチン暗殺の実行犯として知られるドミトリー大公は異母兄姉にあたる。

その後、パーヴェル大公夫妻は、ロマノフ家と和解しロシアに帰国が適った。大公一家は帰国後、ツァールスコエ・セローに住み、1915年にニコライ2世からオリガと3人の子に対して改めてパーリィ公爵の称号と殿下の敬称が与えられ、ナタリーは、ナターリア・パヴロヴナ・パーリィ公爵令嬢(ロシア語: Наталья Павловна Палей, ラテン文字転写: Natalia Pavlovna Paley)を名乗ることとなる。

第一次世界大戦を経て、ロシア革命が勃発するとソビエト政権によって、父パーヴェル大公、兄ウラジーミル・パーリィが殺害された。ボリシェヴィキの手を逃れた彼女たちは、1920年フィンランド経由でフランスに亡命する。フランスに逃れたナタリーは、ナタリー・パレを名乗る。

1927年、ナタリーはルシアン・カミーユ・ルロンと結婚する。ルロンにとって、この結婚は2度目であった。ルロンは、オートクチュールを営むファッションデザイナーであり、戦争中、勲功を立てた人物であった。2人の結婚生活は1937年に終止符が打たれるが、離婚後もしばらくの間、ナタリーはルロンのクチュールでファッションモデルとして働き、ヴォーグに掲載されている。その後、映画女優に転身し、何本か映画に出演した。

1932年ジャン・コクトーと関係を持ち、コクトーの子を妊娠するが、コクトーによって中絶を余儀なくされた。[1]

ナタリーはアメリカに移り、ここでキャサリン・ヘプバーンらアメリカ映画界のスターたちと親密な交友を持ち、生涯を通じて変わることがなかった。アメリカでのナタリーは、その美貌で人々を魅惑し映画界でまずまずの成功を収めた。その後、映画界を引退し、1937年劇場プロデューサーのジョン・チャップマン・ウィルソンと再婚した。結婚後はMainbocherの広報部で長年働いた。

1981年12月27日にニューヨークで死去。ニュージャージー州長老派教会に埋葬された。

参考項目

  1. ^ Jean-Noël Liaut, "Natalie Paley: La princesse dechirée", Paris: Filipacchi, 1996 (ISBN 2-85018-295-8).

外部リンク

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