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「マリア・パヴロヴナ (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公妃)」の版間の差分

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マリアは芸術と同じくらい科学に興味をもち、どちらかといえば文化的に後進国だとみられていたザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国に、豊かな文化財産をもたらした。マリアは生涯を通じて[[ヴァシーリー・ジュコーフスキー]]と文通し、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]は彼女に遺作となった詩を捧げている。彼女は[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]に10の学科をもうけ、[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]を招聘した。晩年には[[フランツ・リスト]]を宮廷に招いており、1850年8月にはリスト指揮で[[リヒャルト・ワーグナー]]の『[[ローエングリン]]』の初演がヴァイマルで行われた。リストのピアノ曲『[[コンソレーション (リスト)|コンソレーション]]』は彼女が作曲した主題が一部に用いられており、彼女に献呈された。
マリアは芸術と同じくらい科学に興味をもち、どちらかといえば文化的に後進国だとみられていたザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国に、豊かな文化財産をもたらした。マリアは生涯を通じて[[ヴァシーリー・ジュコーフスキー]]と文通し、[[フリードリヒ・フォン・シラー]]は彼女に遺作となった詩を捧げている。彼女は[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]に10の学科をもうけ、[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]を招聘した。晩年には[[フランツ・リスト]]を宮廷に招いており、1850年8月にはリスト指揮で[[リヒャルト・ワーグナー]]の『[[ローエングリン]]』の初演がヴァイマルで行われた。リストのピアノ曲『[[コンソレーション (リスト)|コンソレーション]]』は彼女が作曲した主題が一部に用いられており、彼女に献呈された。


1853年にカール・フリードリヒと死別すると、公的な場から退いた。ロシア訪問は、1855年の甥[[アレクサンドル2世]]の戴冠式に出席するための旅行が最後となった。4年後の[[1859年]]にヴァイマルで死去し、カール・フリードリヒらが眠る大公家墓所内に彼女のために建造された、{{仮リンク|ロシア正教会聖堂 (ヴァイマル)|label=ロシア正教会聖堂|en|Russian Orthodox Chapel, Weimar}}に埋葬された。
1853年にカール・フリードリヒと死別すると、公的な場から退いた。ロシア訪問は、1855年の甥[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の戴冠式に出席するための旅行が最後となった。4年後の[[1859年]]にヴァイマルで死去し、カール・フリードリヒらが眠る大公家墓所内に彼女のために建造された、{{仮リンク|ロシア正教会聖堂 (ヴァイマル)|label=ロシア正教会聖堂|en|Russian Orthodox Chapel, Weimar}}に埋葬された。


== 子供 ==
== 子供 ==

2021年6月13日 (日) 08:53時点における版

マリア・パヴロヴナ
Maria Pavlovna
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公妃
マリア・パヴロヴナ(ウラジーミル・ボロヴィコフスキー画)
在位 1828年 - 1853年

全名 ロシア語: Мария Павловна
マリア・パヴロヴナ
ドイツ語: Maria Pawlowna
マリア・パウローナ
出生 1786年2月16日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ペテルブルク
死去 (1859-06-23) 1859年6月23日(73歳没)
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国ワイマール
配偶者 カール・フリードリヒ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ
子女 パウル・アレクサンダー
マリー・ルイーゼ
アウグスタ
カール・アレクサンダー
家名 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
父親 パーヴェル1世
母親 マリア・フョードロヴナ
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マリア・パヴロヴナロシア語: Мария Павловна, ラテン文字転写: Maria Pavlovna, 1786年2月16日 - 1859年6月23日)は、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・フリードリヒの妃。ロシア皇帝パーヴェル1世の三女、母は皇后マリア・フョードロヴナロシア大公女

生涯

サンクトペテルブルクで生まれ、パヴロフスクで育った。幼い頃に種痘を受け、軽度の天然痘を発症したため容姿を損ない、可愛らしい少女ではないと思われていた。祖母エカチェリーナ2世は、マリアのピアノの才能を認めながらも、マリアが男の子に生まれれば良かったと言っていた。マリアの音楽教師はイタリアの作曲家ジュゼッペ・サルティだった。1804年、マリアはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・フリードリヒと結婚し、ヴァイマルへ移る前にサンクトペテルブルクで9か月暮らした。

マリアは芸術と同じくらい科学に興味をもち、どちらかといえば文化的に後進国だとみられていたザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国に、豊かな文化財産をもたらした。マリアは生涯を通じてヴァシーリー・ジュコーフスキーと文通し、フリードリヒ・フォン・シラーは彼女に遺作となった詩を捧げている。彼女はイェーナ大学に10の学科をもうけ、アレクサンダー・フォン・フンボルトを招聘した。晩年にはフランツ・リストを宮廷に招いており、1850年8月にはリスト指揮でリヒャルト・ワーグナーの『ローエングリン』の初演がヴァイマルで行われた。リストのピアノ曲『コンソレーション』は彼女が作曲した主題が一部に用いられており、彼女に献呈された。

1853年にカール・フリードリヒと死別すると、公的な場から退いた。ロシア訪問は、1855年の甥アレクサンドル2世の戴冠式に出席するための旅行が最後となった。4年後の1859年にヴァイマルで死去し、カール・フリードリヒらが眠る大公家墓所内に彼女のために建造された、ロシア正教会聖堂英語版に埋葬された。

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