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[[ヤン・マウリツィ・ハウケ]]伯爵とその妻ゾフィー・ラフォンテーヌの末娘として、[[ポーランド立憲王国]]の[[ワルシャワ]]で生まれた。父ハウケは[[ドイツ系ポーランド人]]の軍人で、[[オーストリア]]・[[イタリア]]・ドイツの各地で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いる[[フランス]]軍と戦い、[[半島戦争]]でも戦った。彼はのち[[ロシア帝国]]軍に身を投じた。彼の能力を評価したロシア皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]により、彼は1829年にポーランド立憲王国の国防副大臣となり、[[伯爵]]となった。翌1830年に[[11月蜂起]]が起こり、ポーランドを治めていた[[コンスタンチン・パヴロヴィチ]]大公は逃げだそうとした。ハウケは大公をかばって路上で銃撃にあい、家族の眼前で絶命した。母ゾフィーは精神的ショックでしばらく後に亡くなったため、遺児たちの多くは皇帝が後見人となって引き取った。
[[ヤン・マウリツィ・ハウケ]]伯爵とその妻ゾフィー・ラフォンテーヌの末娘として、[[ポーランド立憲王国]]の[[ワルシャワ]]で生まれた。父ハウケは[[ドイツ系ポーランド人]]の軍人で、[[オーストリア]]・[[イタリア]]・ドイツの各地で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いる[[フランス]]軍と戦い、[[半島戦争]]でも戦った。彼はのち[[ロシア帝国]]軍に身を投じた。彼の能力を評価したロシア皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]により、彼は1829年にポーランド立憲王国の国防副大臣となり、[[伯爵]]となった。翌1830年に[[11月蜂起]]が起こり、ポーランドを治めていた[[コンスタンチン・パヴロヴィチ]]大公は逃げだそうとした。ハウケは大公をかばって路上で銃撃にあい、家族の眼前で絶命した。母ゾフィーは精神的ショックでしばらく後に亡くなったため、遺児たちの多くは皇帝が後見人となって引き取った。


成長したユリアは、皇太子アレクサンドル(のちの[[アレクサンドル2世]])の妃[[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|マリア]]の女官となった。皇太子妃の兄として宮廷に出入りのできたアレクサンダーがユリアを見初めたが、皇太子の義理の弟である大公子と一女官の恋愛沙汰を皇帝は認めなかった。2人は[[サンクトペテルブルク]]から駆け落ちし、1851年10月28日に[[ヴロツワフ|ブレスラウ]](現ヴロツワフ、当時[[プロイセン王国|プロイセン]]領[[シレジア|シュレージエン]])で結婚した。
成長したユリアは、皇太子アレクサンドル(のちの[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]])の妃[[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|マリア]]の女官となった。皇太子妃の兄として宮廷に出入りのできたアレクサンダーがユリアを見初めたが、皇太子の義理の弟である大公子と一女官の恋愛沙汰を皇帝は認めなかった。2人は[[サンクトペテルブルク]]から駆け落ちし、1851年10月28日に[[ヴロツワフ|ブレスラウ]](現ヴロツワフ、当時[[プロイセン王国|プロイセン]]領[[シレジア|シュレージエン]])で結婚した。


ユリアの爵位は大公家とは釣り合いの取れないものであるため、二人の結婚は[[貴賤結婚]]と見なされた。アレクサンダーの兄[[ルートヴィヒ3世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ3世]]大公は1851年にユリアをバッテンベルク伯爵夫人(Gräfin von Battenberg)に叙し、1858年にはバッテンベルク侯爵夫人(Fürstin von Battenberg)に引き上げた。これによりユリアとアレクサンダーの子供たちは公子公女を名乗れることとなったが、依然ヘッセン=ダルムシュタット家の庶流に留められ、大公位の継承権を与えられることはなかった。
ユリアの爵位は大公家とは釣り合いの取れないものであるため、二人の結婚は[[貴賤結婚]]と見なされた。アレクサンダーの兄[[ルートヴィヒ3世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ3世]]大公は1851年にユリアをバッテンベルク伯爵夫人(Gräfin von Battenberg)に叙し、1858年にはバッテンベルク侯爵夫人(Fürstin von Battenberg)に引き上げた。これによりユリアとアレクサンダーの子供たちは公子公女を名乗れることとなったが、依然ヘッセン=ダルムシュタット家の庶流に留められ、大公位の継承権を与えられることはなかった。

2021年6月13日 (日) 08:53時点における版

ユリア・ハウケ
Julia Hauke
ユリアと夫アレクサンダー

称号 バッテンベルク侯爵夫人
出生 (1825-11-12) 1825年11月12日
ポーランド立憲王国ワルシャワ
死去 (1895-09-19) 1895年9月19日(69歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国、ハイリゲンベルク
配偶者 アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
子女 マリー
ルートヴィヒ
アレクサンダー
ハインリヒ
フランツ・ヨーゼフ
家名 ハウケ家
父親 ヤン・マウリツィ・ハウケ
母親 ゾフィー・ラフォンテーヌ
宗教 キリスト教カトリックルター派
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ユリア・ハウケJulia Hauke, 1825年11月12日 - 1895年9月19日)は、ポーランドの貴族女性で、ドイツのヘッセン大公子アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットの妻。バッテンベルク家の始祖。

生涯

ヤン・マウリツィ・ハウケ伯爵とその妻ゾフィー・ラフォンテーヌの末娘として、ポーランド立憲王国ワルシャワで生まれた。父ハウケはドイツ系ポーランド人の軍人で、オーストリアイタリア・ドイツの各地でナポレオン率いるフランス軍と戦い、半島戦争でも戦った。彼はのちロシア帝国軍に身を投じた。彼の能力を評価したロシア皇帝ニコライ1世により、彼は1829年にポーランド立憲王国の国防副大臣となり、伯爵となった。翌1830年に11月蜂起が起こり、ポーランドを治めていたコンスタンチン・パヴロヴィチ大公は逃げだそうとした。ハウケは大公をかばって路上で銃撃にあい、家族の眼前で絶命した。母ゾフィーは精神的ショックでしばらく後に亡くなったため、遺児たちの多くは皇帝が後見人となって引き取った。

成長したユリアは、皇太子アレクサンドル(のちのアレクサンドル2世)の妃マリアの女官となった。皇太子妃の兄として宮廷に出入りのできたアレクサンダーがユリアを見初めたが、皇太子の義理の弟である大公子と一女官の恋愛沙汰を皇帝は認めなかった。2人はサンクトペテルブルクから駆け落ちし、1851年10月28日にブレスラウ(現ヴロツワフ、当時プロイセンシュレージエン)で結婚した。

ユリアの爵位は大公家とは釣り合いの取れないものであるため、二人の結婚は貴賤結婚と見なされた。アレクサンダーの兄ルートヴィヒ3世大公は1851年にユリアをバッテンベルク伯爵夫人(Gräfin von Battenberg)に叙し、1858年にはバッテンベルク侯爵夫人(Fürstin von Battenberg)に引き上げた。これによりユリアとアレクサンダーの子供たちは公子公女を名乗れることとなったが、依然ヘッセン=ダルムシュタット家の庶流に留められ、大公位の継承権を与えられることはなかった。

1875年5月、ユリアはカトリックからルター派に改宗した。ユリアは、ハイリゲンベルク(ヘッセン南部ユーゲンハイム近郊)で亡くなった。

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