「独露再保障条約」の版間の差分
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'''独露再保障条約'''(どくろさいほしょうじょうやく、{{lang-de-short|Rückversicherungsvertrag}}、{{lang-ru-short|Договор перестраховки}})は、[[1887年]][[6月18日]]、[[ドイツ帝国]]と[[ロシア帝国]]の間に結ばれた秘密[[条約]]。'''再保険条約'''とも'''二重保障条約'''ともいう<ref>「二重保障」条約と呼ばれるのは、すでに[[独墺同盟]]が[[東方問題]]におけるドイツの利益を保障していたところ、二重保障条約がそれを強化したからである。ただし独露両国は1879年の独墺同盟より早くから接近していた。1875年9月、ロシアの[[アレクサンドル2世]]が[[キエフ]]を訪れ、[[ウクライナ]]人の民族主義運動を調べるため特別委員会を設け、内相を長とし、運動を弾圧した。翌1876年5月、アレクサンドル2世は委員会の弾圧方針をドイツの[[バート・エムス|エムス]]で署名し法制化した。これは[[ロシア革命]]まで有効に運用された。伊東孝之 他2名編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 山川出版社 1998年12月 241-242頁</ref>。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]への通告なしに締結されたが、[[ビスマルク体制]]の一環とされている。[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]辞職後の1890年にドイツ側が条約の更新を拒絶し、体制は[[露仏同盟]]に交代した。 |
'''独露再保障条約'''(どくろさいほしょうじょうやく、{{lang-de-short|Rückversicherungsvertrag}}、{{lang-ru-short|Договор перестраховки}})は、[[1887年]][[6月18日]]、[[ドイツ帝国]]と[[ロシア帝国]]の間に結ばれた秘密[[条約]]。'''再保険条約'''とも'''二重保障条約'''ともいう<ref>「二重保障」条約と呼ばれるのは、すでに[[独墺同盟]]が[[東方問題]]におけるドイツの利益を保障していたところ、二重保障条約がそれを強化したからである。ただし独露両国は1879年の独墺同盟より早くから接近していた。1875年9月、ロシアの[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]が[[キエフ]]を訪れ、[[ウクライナ]]人の民族主義運動を調べるため特別委員会を設け、内相を長とし、運動を弾圧した。翌1876年5月、アレクサンドル2世は委員会の弾圧方針をドイツの[[バート・エムス|エムス]]で署名し法制化した。これは[[ロシア革命]]まで有効に運用された。伊東孝之 他2名編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 山川出版社 1998年12月 241-242頁</ref>。[[オーストリア=ハンガリー帝国]]への通告なしに締結されたが、[[ビスマルク体制]]の一環とされている。[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]辞職後の1890年にドイツ側が条約の更新を拒絶し、体制は[[露仏同盟]]に交代した。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
2021年6月13日 (日) 08:54時点における版
独露再保障条約 | |
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通称・略称 | 再保険条約、二重保障条約 |
署名 | 1887年6月18日 |
失効 | 1890年 |
締約国 | ドイツ帝国とロシア帝国 |
主な内容 |
ドイツの歴史 | |
東フランク王国 | |
神聖ローマ帝国 | |
プロイセン王国 | ライン同盟諸国 |
ドイツ連邦 | |
北ドイツ連邦 | 南部諸国 |
ドイツ帝国 | |
ヴァイマル共和政 | |
ナチス・ドイツ | |
連合軍軍政期 | |
ドイツ民主共和国 (東ドイツ) |
ドイツ連邦共和国 (西ドイツ) |
ドイツ連邦共和国 |
独露再保障条約(どくろさいほしょうじょうやく、独: Rückversicherungsvertrag、露: Договор перестраховки)は、1887年6月18日、ドイツ帝国とロシア帝国の間に結ばれた秘密条約。再保険条約とも二重保障条約ともいう[1]。オーストリア=ハンガリー帝国への通告なしに締結されたが、ビスマルク体制の一環とされている。ビスマルク辞職後の1890年にドイツ側が条約の更新を拒絶し、体制は露仏同盟に交代した。
概要
三帝同盟が崩壊しオスマン債務管理局をめぐる債権国同士の対立が深まり、ドイツとしては露仏両国の接近を妨げ二正面作戦を避ける必要が生じた。そこで1850年代からの経済関係を利用し、独露再保障条約を実現した。内容は次の通りで、期限は3年であった。
- ドイツはロシアのブルガリアと東ルメリアにおける既得権を認める。
- ロシアがボスポラスやダーダネルス両海峡を占領した場合には、ドイツがロシアを国際外交で支持しバルカン半島進出を認める。
- 締約国の一方が第三国と戦争する場合、他方が好意的中立を守る。
1857年恐慌から独露間では密接な経済関係が築かれてきた。ドイツ資本は鉄道の他に、国債もしくは債権保証としての貸付として輸出された。一時ドイツ資本は南北戦争へも流れていたが、戦後は農奴解放令が実施されたロシアへ集中していった。1865年から1876年に4億1700万ルーブル、換算して9億マルクがロシアの鉄道建設へ向けられ、ロシア外資で最大の比重を占めた。1869-72年にドイツの有力な銀行が、ロシアの相互土地信用連合をはじめとして(1億3000万ルーブル)、ポーランドやフィンランドの有力行設立にも参加した。ロシア工業への投資分野は、1850年代に紡績・ガス製造部門、1860年代以降は鉱山・精錬所部門であった。工業投資と並行して、ドイツ商業運送業経営がロシアに定着していった。露土戦争 (1877年-1878年) をきっかけにロシアは関税を引き上げて保護主義へ傾いた。これがドイツ資本に特別高い利潤を保証した。ロシアの鉄道債券がさらにドイツ資本を呼び込んだ。シーメンスがコーカサスに銅山を取得、1882-86年に同地方産出額の90.5%を供給した。1890年にドイツ資本は7億9000万ルーブルに達し、ロシアにおける外資で首位を占めた。もっとも参考文献は多国籍企業コッカリルの存在・動態を考えていない。
鉄道と金融
1857年、大ロシア鉄道会社(Great Russian Railway Company)を設立するコンソーシアムにメンデルスゾーン(Bankhaus Mendelssohn & Co.)が参加、125万ルーブルの株式を引受けた。同年、ワルシャワ=ウィーン鉄道会社(Warsaw–Vienna railway)とワルシャワ=ブィドゴシュチュ鉄道会社の設立にドイツ資本が参加。ワルシャワの銀行家エップシュタイン(Epstein)、前プロイセン大臣ミルデ(Karl August Milde)、レナルド伯(Andreas Maria von Renard)、ミネルヴァ株式会社ムシュヴィッツ男爵(Muschwitz)、それぞれの引受株数は括弧内(H. Epstein - 10250 Aktien, K. A. Milde - 2250 Aktien, Graf Renard - 10250 Aktien und Baron Muschwitz - 2250 Aktien.)。そしてワルシャワ=ウィーン鉄道会社の監査役会にホーエンローエ・エーリンゲンのフーゴー伯(Hugo zu Hohenlohe-Öhringen)が属した。1863年にモスクワ=リャザン鉄道の五分利付き鉄道債券を独露コンソーシアムが引受けた。参加者はダルムシュタット商工銀行(Darmstädter Bank für Handel und Industrie, ダナート銀行の前身)、ディスコント・ゲゼルシャフト(現ドイツ銀行)、ケルンの銀行家オッペンハイム(Oppenheim)、サンクトペテルブルクのカップヘルであった。この節で見た資本輸出はドイツからの鉄道資材輸出を促進した。ボルジッヒは車両とレールの両方を供給した。
ペテルブルク国際銀行(Петербургский международный банк)の設立には、ベレンベルク銀行、ゴッスレル(Gossler & Co. 現ベレンベルク銀行)、ベトマン=エルランガー(Bethmann Erlanger)、ディスコント・ゲゼルシャフトが参加した。1872年に同行の監査役の席が五人から七人へ増えたとき、ディスコント・ゲゼルシャフトの監査役ヴィルケンスが就任した。1872年リガ商業銀行の設立にベルリン商業銀行(Berliner Handels-Gesellschaft)などのドイツ資本が参加した。1866年フランクフルトのロスチャイルド家がロシア相互土地信用連合(den russischen Gegenseitigen Bodenkreditverein)の設立において主役を演じたが、1868年から同家と懇意のゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダーが同行の抵当証券仲介に参加した。1873年ロシア中央土地信用銀行の創立にはディスコント・ゲゼルシャフトが参加した。なお、ディスコント・ゲゼルシャフトとベルリン商業銀行は、ペテルブルク国際銀行と協同で1880年代にロシア揮発油生産会社ノーベルへ参加した。
ロシアにおけるフランス資本との競争は、独露再保障条約の更新拒絶のあと、露清銀行で熾烈をきわめた。
参考文献
- Sigrid Kumpf-Korfes, Bismarcks Draht nach Rußland: Zum Problem der sozial-ökonomischen Hintergründe der russischdeutschen Entfremdung im Zeitraum von 1878 bis 1891, Berlin, 1968.
- Joachim Mai, Das deutsche Kapital in Russland 1850-1894, Berlin, 1970.
脚注
外部リンク
- 条約テキスト全文(ドイツ語)