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[[1845年]]軍に入る。[[1853年]]から[[1856年]]、[[クリミア戦争]]に従軍している。[[1864年]][[ロシア帝国憲兵団|憲兵隊]]参謀長。[[1874年]]憲兵隊副司令官を経て、[[1876年]]憲兵隊司令官兼[[皇帝官房第三部]]長官に就任した。
[[1845年]]軍に入る。[[1853年]]から[[1856年]]、[[クリミア戦争]]に従軍している。[[1864年]][[ロシア帝国憲兵団|憲兵隊]]参謀長。[[1874年]]憲兵隊副司令官を経て、[[1876年]]憲兵隊司令官兼[[皇帝官房第三部]]長官に就任した。


[[1877年]]、政治犯に対する集団裁判「193人事件」では、法廷が数人の被告に重刑を課した以外、残りを比較的軽い量刑と課したのに対し、メゼンツォフは、皇帝[[アレクサンドル2世]]に献策し、その結果、刑期延長の判決訂正が行われ、ロシア社会を震撼とさせた。
[[1877年]]、政治犯に対する集団裁判「193人事件」では、法廷が数人の被告に重刑を課した以外、残りを比較的軽い量刑と課したのに対し、メゼンツォフは、皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]に献策し、その結果、刑期延長の判決訂正が行われ、ロシア社会を震撼とさせた。


[[1878年]]8月、[[サンクトペテルブルク]]の[[ネフスキー大通り]]で白昼、「[[土地と自由]]」の活動家で元砲兵中尉、[[セルゲイ・ステプニャク=クラフチンスキー]]によって刺殺された。メゼンツェフは刺された直後は致命傷とは気づかず、自邸にたどり着いた後、死去した。ステプニャク=クラフチンスキーは事件後にロシアを脱出し、イギリス、アメリカを転々とした後に[[1895年]]に[[ロンドン]]で鉄道事故により死去している。
[[1878年]]8月、[[サンクトペテルブルク]]の[[ネフスキー大通り]]で白昼、「[[土地と自由]]」の活動家で元砲兵中尉、[[セルゲイ・ステプニャク=クラフチンスキー]]によって刺殺された。メゼンツェフは刺された直後は致命傷とは気づかず、自邸にたどり着いた後、死去した。ステプニャク=クラフチンスキーは事件後にロシアを脱出し、イギリス、アメリカを転々とした後に[[1895年]]に[[ロンドン]]で鉄道事故により死去している。

2021年6月13日 (日) 08:56時点における版

ニコライ・メゼンツォフ

ニコライ・ウラジーミロヴィチ・メゼンツォフメゼンツェフロシア語: Николай Владимирович МезенцовNikolai Vladimirovich Mezentsovユリウス暦1827年4月4日グレゴリオ暦4月23日) - ユリウス暦1878年8月4日(グレゴリオ暦8月16日))は、帝政ロシア政治家軍人1871年高級副官。1877年ロシア帝国国家評議会議員。

1845年軍に入る。1853年から1856年クリミア戦争に従軍している。1864年憲兵隊参謀長。1874年憲兵隊副司令官を経て、1876年憲兵隊司令官兼皇帝官房第三部長官に就任した。

1877年、政治犯に対する集団裁判「193人事件」では、法廷が数人の被告に重刑を課した以外、残りを比較的軽い量刑と課したのに対し、メゼンツォフは、皇帝アレクサンドル2世に献策し、その結果、刑期延長の判決訂正が行われ、ロシア社会を震撼とさせた。

1878年8月、サンクトペテルブルクネフスキー大通りで白昼、「土地と自由」の活動家で元砲兵中尉、セルゲイ・ステプニャク=クラフチンスキーによって刺殺された。メゼンツェフは刺された直後は致命傷とは気づかず、自邸にたどり着いた後、死去した。ステプニャク=クラフチンスキーは事件後にロシアを脱出し、イギリス、アメリカを転々とした後に1895年ロンドンで鉄道事故により死去している。

外部リンク

先代
アレクサンドル・ポタポフ
皇帝官房第三部長官
1876年 - 1878年
次代
アレクサンドル・ドレンテルン