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「ペルシャ行進曲」の版間の差分

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[[1864年]]の[[6月]]に作曲され、完成後はペルシャ(現在の[[イラン]])の国王([[シャー]])、[[ナーセロッディーン・シャー]]に捧げられた。シュトラウス2世の但し書きによれば、トリオ部分は「ペルシャのオリジナル・メロディ」であるという。この当時の[[ロシア]]は[[イギリス]]との対抗上、親ペルシャ政策をとっており、ロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]に招かれて、ペルシャ王が[[パヴロフスク]]に訪れたといわれている。
[[1864年]]の[[6月]]に作曲され、完成後はペルシャ(現在の[[イラン]])の国王([[シャー]])、[[ナーセロッディーン・シャー]]に捧げられた。シュトラウス2世の但し書きによれば、トリオ部分は「ペルシャのオリジナル・メロディ」であるという。この当時の[[ロシア]]は[[イギリス]]との対抗上、親ペルシャ政策をとっており、ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]に招かれて、ペルシャ王が[[パヴロフスク]]に訪れたといわれている。


ロシアでの作品のタイトルは「ペルシャ陸軍行進曲」だったが、同年の[[12月4日]]に[[ウィーン]]のフォルクスガルデンで催された慈善演奏会<ref>正しくは「ロシア皇帝臨席のもとに、宮廷舞踏楽長ヨハン・シュトラウス(2世)の協力を得て、[[ヨーゼフ・シュトラウス]]と[[エドゥアルト・シュトラウス1世]]による慈善演奏会」である。</ref>では、現在のタイトルで初演が行われた。なお、ペルシャ王が初めてウィーンに訪れるのはその9年後の[[1873年]]のことである。
ロシアでの作品のタイトルは「ペルシャ陸軍行進曲」だったが、同年の[[12月4日]]に[[ウィーン]]のフォルクスガルデンで催された慈善演奏会<ref>正しくは「ロシア皇帝臨席のもとに、宮廷舞踏楽長ヨハン・シュトラウス(2世)の協力を得て、[[ヨーゼフ・シュトラウス]]と[[エドゥアルト・シュトラウス1世]]による慈善演奏会」である。</ref>では、現在のタイトルで初演が行われた。なお、ペルシャ王が初めてウィーンに訪れるのはその9年後の[[1873年]]のことである。

2021年6月13日 (日) 08:57時点における版

ペルシャ行進曲Persischermarsch作品289は、ヨハン・シュトラウス2世が作曲した行進曲。『ペルシア行進曲』とも表記される。

概要

1864年6月に作曲され、完成後はペルシャ(現在のイラン)の国王(シャー)、ナーセロッディーン・シャーに捧げられた。シュトラウス2世の但し書きによれば、トリオ部分は「ペルシャのオリジナル・メロディ」であるという。この当時のロシアイギリスとの対抗上、親ペルシャ政策をとっており、ロシア皇帝アレクサンドル2世に招かれて、ペルシャ王がパヴロフスクに訪れたといわれている。

ロシアでの作品のタイトルは「ペルシャ陸軍行進曲」だったが、同年の12月4日ウィーンのフォルクスガルデンで催された慈善演奏会[1]では、現在のタイトルで初演が行われた。なお、ペルシャ王が初めてウィーンに訪れるのはその9年後の1873年のことである。

関連作品

脚注

  1. ^ 正しくは「ロシア皇帝臨席のもとに、宮廷舞踏楽長ヨハン・シュトラウス(2世)の協力を得て、ヨーゼフ・シュトラウスエドゥアルト・シュトラウス1世による慈善演奏会」である。