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『'''猟人日記'''』(りょうじんにっき、{{lang-ru-short|Записки охотника}}<ref>ロシア語及び英語圏では "{{lang|en|A Sportsman's Sketches}}"(スポーツマンの日記)の呼称で知られる。日本語、ドイツ語、フランス語などでは "Sketches from a Hunter's Album"(猟人の日記)と訳されている。</ref>)は、[[1847年]]から[[1851年]]に雑誌『[[同時代人]]』に発表された[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]による全22編の[[短編小説]]集。[[1852年]]に刊行後、3編を追加し1880年に再刊。
『'''猟人日記'''』(りょうじんにっき、{{lang-ru-short|Записки охотника}}<ref>ロシア語及び英語圏では "{{lang|en|A Sportsman's Sketches}}"(スポーツマンの日記)の呼称で知られる。日本語、ドイツ語、フランス語などでは "Sketches from a Hunter's Album"(猟人の日記)と訳されている。</ref>)は、[[1847年]]から[[1851年]]に雑誌『[[同時代人]]』に発表された[[イワン・ツルゲーネフ|ツルゲーネフ]]による全22編の[[短編小説]]集。[[1852年]]に刊行後、3編を追加し1880年に再刊。


[[帝政ロシア]]の美しい自然描写を背景にして、悲惨な[[ロシアの農奴制|農奴]]の生活を写実的に描き出した。皇太子時代の[[アレクサンドル2世]]は、この作を読んで大きな影響を受け、皇位継承後に[[農奴解放令|農奴制廃止]]を決断する切っ掛けの一つとなった。
[[帝政ロシア]]の美しい自然描写を背景にして、悲惨な[[ロシアの農奴制|農奴]]の生活を写実的に描き出した。皇太子時代の[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]は、この作を読んで大きな影響を受け、皇位継承後に[[農奴解放令|農奴制廃止]]を決断する切っ掛けの一つとなった。


この中の1編は[[二葉亭四迷]]により「あひゞき」(1888年、『[[国民文学]]』に発表)と訳され、言文一致の名訳として知られる。
この中の1編は[[二葉亭四迷]]により「あひゞき」(1888年、『[[国民文学]]』に発表)と訳され、言文一致の名訳として知られる。

2021年6月13日 (日) 08:57時点における版

猟人日記』(りょうじんにっき、: Записки охотника[1])は、1847年から1851年に雑誌『同時代人』に発表されたツルゲーネフによる全22編の短編小説集。1852年に刊行後、3編を追加し1880年に再刊。

帝政ロシアの美しい自然描写を背景にして、悲惨な農奴の生活を写実的に描き出した。皇太子時代のアレクサンドル2世は、この作を読んで大きな影響を受け、皇位継承後に農奴制廃止を決断する切っ掛けの一つとなった。

この中の1編は二葉亭四迷により「あひゞき」(1888年、『国民文学』に発表)と訳され、言文一致の名訳として知られる。

日本語訳

脚注

  1. ^ ロシア語及び英語圏では "A Sportsman's Sketches"(スポーツマンの日記)の呼称で知られる。日本語、ドイツ語、フランス語などでは "Sketches from a Hunter's Album"(猟人の日記)と訳されている。

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