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* [[マクシミリアン・フォン・バーデン|マクシミリアン]](1867年 - 1929年)
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結婚後も故国ロシアを頻繁に訪問していた。1866年春、弟ニコライとともに、夏宮殿の庭園を散策する皇帝[[アレクサンドル2世]]に同行していたところ、革命家ドミトリー・カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件に遭遇している。
結婚後も故国ロシアを頻繁に訪問していた。1866年春、弟ニコライとともに、夏宮殿の庭園を散策する皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]に同行していたところ、革命家ドミトリー・カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件に遭遇している。


1914年にマリアは[[カールスルーエ]]で死去し、[[バーデン=バーデン]]の[[救世主顕栄大聖堂|ハリストス顕栄教会]]({{lang|de|[[:de:Russische Kirche (Baden-Baden)|Christi-Verklärungskirche]]}})に埋葬された。
1914年にマリアは[[カールスルーエ]]で死去し、[[バーデン=バーデン]]の[[救世主顕栄大聖堂|ハリストス顕栄教会]]({{lang|de|[[:de:Russische Kirche (Baden-Baden)|Christi-Verklärungskirche]]}})に埋葬された。

2021年6月13日 (日) 08:59時点における版

マリア・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤ
Мария Максимилиановна Рома́новская

出生 (1841-10-16) 1841年10月16日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国サンクトペテルブルク
死去 (1914-02-16) 1914年2月16日(72歳没)
カールスルーエ
埋葬 バーデン=バーデンハリストス顕栄教会
配偶者 バーデン大公子ヴィルヘルム
子女 マリー
マクシミリアン
家名 ボアルネ家
父親 ロイヒテンベルク公マクシミリアン・ド・ボアルネ
母親 マリア・ニコラエヴナ
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マリア・マクシミリアノヴナ・ロマノフスカヤロシア語: Мария Максимилиановна Рома́новская1841年10月16日旧暦では10月4日 - 1914年2月16日旧暦では10月3日)は、ロシア帝国の貴族あるいは皇族。バーデン大公子ヴィルヘルムの妻。

生涯

ロイヒテンベルク公マクシミリアン・ド・ボアルネとその妻でロシア皇帝ニコライ1世の娘であるマリア・ニコラエヴナの第2子として、サンクトペテルブルクで生まれた。

1863年、ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと結婚。2子をもうけた。

結婚後も故国ロシアを頻繁に訪問していた。1866年春、弟ニコライとともに、夏宮殿の庭園を散策する皇帝アレクサンドル2世に同行していたところ、革命家ドミトリー・カラコーゾフによる皇帝暗殺未遂事件に遭遇している。

1914年にマリアはカールスルーエで死去し、バーデン=バーデンハリストス顕栄教会Christi-Verklärungskirche)に埋葬された。