コンテンツにスキップ

「レフ・マーコフ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)) - log
23行目: 23行目:
|退任理由 = 解任、逓信大臣就任により
|退任理由 = 解任、逓信大臣就任により
|元首職 = 皇帝
|元首職 = 皇帝
|元首 = [[アレクサンドル2世]]
|元首 = [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]
|国旗2 = RUS1883
|国旗2 = RUS1883
|職名2 = [[逓信大臣]]
|職名2 = [[逓信大臣]]
31行目: 31行目:
|退任理由2 =
|退任理由2 =
|元首職2 = 皇帝
|元首職2 = 皇帝
|元首2 = [[アレクサンドル2世]]
|元首2 = [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]
}}
}}
'''レフ・サーヴィチ・マーコフ'''('''{{Lang-ru|Лев Саввич Маков}}'''、'''Lev Savich Makov'''、[[1830年]] - [[1883年]][[2月27日]])は、[[帝政ロシア]]の[[官僚]]、[[政治家]]。ロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]の下で[[内務大臣]]、[[逓信大臣]]を務めた。
'''レフ・サーヴィチ・マーコフ'''('''{{Lang-ru|Лев Саввич Маков}}'''、'''Lev Savich Makov'''、[[1830年]] - [[1883年]][[2月27日]])は、[[帝政ロシア]]の[[官僚]]、[[政治家]]。ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の下で[[内務大臣]]、[[逓信大臣]]を務めた。


== 経歴・概要 ==
== 経歴・概要 ==
近侍学校(陸軍中央幼年学校、[[:ru:Пажеский корпус|ロシア語記事]])を卒業して、軍人となり、[[ウーラン|軽騎兵]]隊に所属した。[[1857年]]、病気で除隊したあと[[内務省]]に入省した。内務省では内相[[ピョートル・ヴァルーエフ]]の庇護を受け、農奴問題を担当する。[[1863年]]、ヴァルーエフによって[[ヴィリノ県]]に派遣され、同県知事[[ウラジーミル・ナジーモフ]]に仕える。[[1875年]]、[[ワルシャワ]]に派遣され[[ポーランド]]総督[[ムラヴィヨフ]]の下で働く。[[1878年]]、内務次官に任命され、[[1979年]]、[[アレクサンドル・チマシェフ]]の後任として内務大臣に就任する。1880年2月、皇帝[[アレクサンドル2世]]に対する暗殺未遂事件をきっかけに設置された最高指揮委員会長官に[[ミハイル・ロリス=メリコフ]]が就任すると官僚派のマーコフと改革を志向するロリス=メリコフは対立するようになり、最高指揮委員会廃止に伴い、ロリス=メリコフが内相に、マーコフは内務省から分離した郵政・逓信・外国宗教問題担当相に就任した。[[1881年]]、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]議員に選出されたが、[[1883年]]、[[ピストル]][[自殺]]を遂げた。
近侍学校(陸軍中央幼年学校、[[:ru:Пажеский корпус|ロシア語記事]])を卒業して、軍人となり、[[ウーラン|軽騎兵]]隊に所属した。[[1857年]]、病気で除隊したあと[[内務省]]に入省した。内務省では内相[[ピョートル・ヴァルーエフ]]の庇護を受け、農奴問題を担当する。[[1863年]]、ヴァルーエフによって[[ヴィリノ県]]に派遣され、同県知事[[ウラジーミル・ナジーモフ]]に仕える。[[1875年]]、[[ワルシャワ]]に派遣され[[ポーランド]]総督[[ムラヴィヨフ]]の下で働く。[[1878年]]、内務次官に任命され、[[1979年]]、[[アレクサンドル・チマシェフ]]の後任として内務大臣に就任する。1880年2月、皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]に対する暗殺未遂事件をきっかけに設置された最高指揮委員会長官に[[ミハイル・ロリス=メリコフ]]が就任すると官僚派のマーコフと改革を志向するロリス=メリコフは対立するようになり、最高指揮委員会廃止に伴い、ロリス=メリコフが内相に、マーコフは内務省から分離した郵政・逓信・外国宗教問題担当相に就任した。[[1881年]]、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]議員に選出されたが、[[1883年]]、[[ピストル]][[自殺]]を遂げた。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年6月13日 (日) 09:01時点における版

レフ・マーコフ
Лев Саввич Маков
レフ・マーコフ
生年月日 1830年
没年月日 1883年2月27日
前職 軍人、内務官僚

在任期間 1879年 - 1880年
皇帝 アレクサンドル2世

皇帝 アレクサンドル2世
テンプレートを表示

レフ・サーヴィチ・マーコフロシア語: Лев Саввич МаковLev Savich Makov1830年 - 1883年2月27日)は、帝政ロシア官僚政治家。ロシア皇帝アレクサンドル2世の下で内務大臣逓信大臣を務めた。

経歴・概要

近侍学校(陸軍中央幼年学校、ロシア語記事)を卒業して、軍人となり、軽騎兵隊に所属した。1857年、病気で除隊したあと内務省に入省した。内務省では内相ピョートル・ヴァルーエフの庇護を受け、農奴問題を担当する。1863年、ヴァルーエフによってヴィリノ県に派遣され、同県知事ウラジーミル・ナジーモフに仕える。1875年ワルシャワに派遣されポーランド総督ムラヴィヨフの下で働く。1878年、内務次官に任命され、1979年アレクサンドル・チマシェフの後任として内務大臣に就任する。1880年2月、皇帝アレクサンドル2世に対する暗殺未遂事件をきっかけに設置された最高指揮委員会長官にミハイル・ロリス=メリコフが就任すると官僚派のマーコフと改革を志向するロリス=メリコフは対立するようになり、最高指揮委員会廃止に伴い、ロリス=メリコフが内相に、マーコフは内務省から分離した郵政・逓信・外国宗教問題担当相に就任した。1881年国家評議会議員に選出されたが、1883年ピストル自殺を遂げた。

脚注

パブリックドメイン この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)

先代
アレクサンドル・チマシェフ
ロシア帝国内務大臣
1879年 - 1880年
次代
ミハイル・ロリス=メリコフ