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'''カール・ベルンハルト・フォン・トリニウス'''(Carl Bernhard von Trinius, [[1778年]][[3月7日]] - [[1844年]][[3月12日]])は[[ドイツ]]の[[医師]]、[[植物学者]]、[[詩人]]である。[[ロシア帝国|ロシア]]で働き、皇太子[[アレクサンドル2世|アレクサンドル]]の侍医、[[家庭教師]]を務めた。
'''カール・ベルンハルト・フォン・トリニウス'''(Carl Bernhard von Trinius, [[1778年]][[3月7日]] - [[1844年]][[3月12日]])は[[ドイツ]]の[[医師]]、[[植物学者]]、[[詩人]]である。[[ロシア帝国|ロシア]]で働き、皇太子[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル]]の侍医、[[家庭教師]]を務めた。


==生涯==
==生涯==

2021年6月13日 (日) 09:03時点における版

カール・ベルンハルト・フォン・トリニウス

カール・ベルンハルト・フォン・トリニウス(Carl Bernhard von Trinius, 1778年3月7日 - 1844年3月12日)はドイツ医師植物学者詩人である。ロシアで働き、皇太子アレクサンドルの侍医、家庭教師を務めた。

生涯

アイスレーベンで生まれた。父親はプロテスタント牧師のヨハン・アントン・トリニウス (Johann Anton Trinius)、母親はホメオパシーの創始者とされるザムエル・ハーネマンの妹である。6歳で父ヨハンを失い、母親は教師と再婚した。1792年からイェーナ大学ハレ大学ゲッティンゲン大学医学を学び、また植物学にも興味を持った。1802年に医師の資格を得た後、バルト地域に移り、ラトビアのHasenpoth(現Aizpute)で詩人のウルリヒ・フォン・シュリッペンバッハ(Ulrich von Schlippenbach, 1774年 - 1826年)らと知り合った。1808年にヴュルテンベルク家の公爵夫人アントワネット (Antoinette von Württemberg) の個人医となった。植物学の研究を行いながら、公爵夫人が没するまで、治療のためにドイツとロシアの間を何度も旅した。

1810年にサンクトペテルブルクの帝国科学アカデミーの外国人会員となり、1823年には一般会員に選ばれた。ナポレオン戦争中の1811年から1815年の間、公爵夫人とともにサンクトペテルブルクに滞在し、1822年までビテプスクに住んだ後、サンクトペテルブルクに移住し、公爵夫人の死後はロシア皇室の医師、1833年までアレクサンドル皇太子の自然史の家庭教師となった。1830年ころからホメオパシーの研究を行い、ハーネマンと定期的に連絡を取り合った。

1837年から1838年の間、ドイツ各地の植物園を巡り旅行を行ったが、1837年にミュンヘンで、1838年にドレスデン脳梗塞を起こした。1844年に心不全によりサンクトペテルブルクで死去。彼の収集したコレクションは、自らが創立者の一人である帝国サンクトペテルブルク植物園(現在のコマロフ植物研究所:Ботанический институт им. В.Л.Комарова РАН)に寄付された。

セリ科の属名、 トリニア属 (Trinia) に献名されている。

著書

  • 1820: Fundamenta Agrostographiae, Botanisches Standardwerk
  • Über das Wesen und die Bedeutung der menschlichen Haare und der Zähne.
  • 1828: Species graminum, iconibus et desciptionibus illustr.
  • 1848: Gedichte von Dr. B. C. Trinius, herausgegeben von zweien seiner Freunde, Berlin 1848