「パーヴェル・イグナチェフ」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加 |
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)) - log |
||
3行目: | 3行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
父は[[アレクサンドル3世]]の時代に[[ロシア帝国内務大臣|内務大臣]]を務めた[[ニコライ・イグナチェフ|ニコライ・パヴロヴィッチ・イグナチェフ]]伯爵。[[キエフ大学]]を卒業後[[1903年]][[4月16日]]、ナターシャ・ニコラエヴナ・メスツェレスキー公爵令嬢([[1877年]] - [[1944年]])と[[フランス]]の[[ニース]]で結婚し、5人の男子を儲けた。[[1909年]]に農業省に入省し[[1912年]]に同副大臣、[[第一次世界大戦]]中の1915年に教育相に任命された。 |
父は[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の時代に[[ロシア帝国内務大臣|内務大臣]]を務めた[[ニコライ・イグナチェフ|ニコライ・パヴロヴィッチ・イグナチェフ]]伯爵。[[キエフ大学]]を卒業後[[1903年]][[4月16日]]、ナターシャ・ニコラエヴナ・メスツェレスキー公爵令嬢([[1877年]] - [[1944年]])と[[フランス]]の[[ニース]]で結婚し、5人の男子を儲けた。[[1909年]]に農業省に入省し[[1912年]]に同副大臣、[[第一次世界大戦]]中の1915年に教育相に任命された。 |
||
[[1918年]]に[[ロシア革命]]が起こると、イグナチェフは逮捕され処刑が決まった。しかし彼が教育相在任中に行った[[ポーランド語]]の権利などに関する進歩的政策を評価していた[[ポーランド人]][[コミッサール]]により命を救われ、[[1919年]]に家族とともに[[ヨーロッパ]]に亡命した。イグナチェフはニコライ2世の閣僚中、唯一処刑を免れることができた。[[イギリス]]の[[サセックス]]を経て[[1925年]]にイグナチェフ一家は[[カナダ]]に移り、3年後に[[ケベック州]][[上メルボルン]](Upper Melbourne)に定住した。イグナチェフの一子[[ジョージ・イグナティエフ|ゲオルギー(ジョージ)・イグナチェフ]]はカナダの著名な[[外交官]]となった。孫の一人、[[マイケル・イグナチェフ]]は作家、[[ハーバード大学]]教授を経て、カナダの[[庶民院 (カナダ)|下院]]議員、[[カナダ自由党]]党首となった。 |
[[1918年]]に[[ロシア革命]]が起こると、イグナチェフは逮捕され処刑が決まった。しかし彼が教育相在任中に行った[[ポーランド語]]の権利などに関する進歩的政策を評価していた[[ポーランド人]][[コミッサール]]により命を救われ、[[1919年]]に家族とともに[[ヨーロッパ]]に亡命した。イグナチェフはニコライ2世の閣僚中、唯一処刑を免れることができた。[[イギリス]]の[[サセックス]]を経て[[1925年]]にイグナチェフ一家は[[カナダ]]に移り、3年後に[[ケベック州]][[上メルボルン]](Upper Melbourne)に定住した。イグナチェフの一子[[ジョージ・イグナティエフ|ゲオルギー(ジョージ)・イグナチェフ]]はカナダの著名な[[外交官]]となった。孫の一人、[[マイケル・イグナチェフ]]は作家、[[ハーバード大学]]教授を経て、カナダの[[庶民院 (カナダ)|下院]]議員、[[カナダ自由党]]党首となった。 |
2021年6月13日 (日) 09:28時点における版
パーヴェル・ニコラエヴィッチ・イグナチェフ(Павел Николаевич Игнатьев, 1870年8月 - 1945年8月12日)は、帝政ロシアの政治家。1915年から1917年までニコライ2世の下で、教育大臣兼宮中顧問官を務めた。
経歴
父はアレクサンドル3世の時代に内務大臣を務めたニコライ・パヴロヴィッチ・イグナチェフ伯爵。キエフ大学を卒業後1903年4月16日、ナターシャ・ニコラエヴナ・メスツェレスキー公爵令嬢(1877年 - 1944年)とフランスのニースで結婚し、5人の男子を儲けた。1909年に農業省に入省し1912年に同副大臣、第一次世界大戦中の1915年に教育相に任命された。
1918年にロシア革命が起こると、イグナチェフは逮捕され処刑が決まった。しかし彼が教育相在任中に行ったポーランド語の権利などに関する進歩的政策を評価していたポーランド人コミッサールにより命を救われ、1919年に家族とともにヨーロッパに亡命した。イグナチェフはニコライ2世の閣僚中、唯一処刑を免れることができた。イギリスのサセックスを経て1925年にイグナチェフ一家はカナダに移り、3年後にケベック州上メルボルン(Upper Melbourne)に定住した。イグナチェフの一子ゲオルギー(ジョージ)・イグナチェフはカナダの著名な外交官となった。孫の一人、マイケル・イグナチェフは作家、ハーバード大学教授を経て、カナダの下院議員、カナダ自由党党首となった。
参考
- Count Ignatieff address to the Empire Club of Canada
- "Countess Ignatieff". New York Times, 30 Aug 1944: 17.
- Index with link to Ignatieff genealogical information
- "Nicholas Ignatieff". New York Times, 30 Mar 1952: 93.
- Russians in Exile