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[[ナロードニキ]]の[[秘密結社]]「土地と自由」から分裂した[[過激派]]によって[[1879年]]に結成された。[[フランス革命]]に影響を受け帝政の打倒と農村共同体を母体とした[[社会主義]]を[[スローガン]]に掲げていたが大衆からは支持されていなかった。「最終的には革命は大衆の参加を必要とする」と考えていたがそのために最初に[[ロシア皇帝|皇帝]]を[[暗殺]]して大衆の価値観を変え、反乱勃発を促そうとしていた。1879年11月には、[[クリミア共和国|クリミア]]から帰還する皇帝を狙った、[[ツァーリ]]専用列車爆破を計画するが失敗し翌年には[[冬宮殿|冬宮]]爆破事件をおこして5人を殺害した。
[[ナロードニキ]]の[[秘密結社]]「土地と自由」から分裂した[[過激派]]によって[[1879年]]に結成された。[[フランス革命]]に影響を受け帝政の打倒と農村共同体を母体とした[[社会主義]]を[[スローガン]]に掲げていたが大衆からは支持されていなかった。「最終的には革命は大衆の参加を必要とする」と考えていたがそのために最初に[[ロシア皇帝|皇帝]]を[[暗殺]]して大衆の価値観を変え、反乱勃発を促そうとしていた。1879年11月には、[[クリミア共和国|クリミア]]から帰還する皇帝を狙った、[[ツァーリ]]専用列車爆破を計画するが失敗し翌年には[[冬宮殿|冬宮]]爆破事件をおこして5人を殺害した。


そして1881年3月1日に[[ソフィア・ペロフスカヤ]]指揮のもとで[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の[[アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年)|暗殺]]に成功する。この事件では[[ニコライ・キバリチチ|キバリチチ]]式手投げ[[爆弾]]が使用された。事件後の3月10日に[[アレクサンドル3世]]に[[公開状]]をおくり、政治的自由の公布、大赦、制憲議会招集を条件にテロ中止を申し入れたが、政府はこれを無視して[[弾圧]]を加え主要メンバーは[[逮捕]]された。4月には皇帝暗殺事件関係者のペロフスカヤら5人が[[絞首刑]]に処せられた。
そして1881年3月1日に[[ソフィア・ペロフスカヤ]]指揮のもとで[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の[[アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年)|暗殺]]に成功する。この事件では[[ニコライ・キバリチチ|キバリチチ]]式手投げ[[爆弾]]が使用された。事件後の3月10日に[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]に[[公開状]]をおくり、政治的自由の公布、大赦、制憲議会招集を条件にテロ中止を申し入れたが、政府はこれを無視して[[弾圧]]を加え主要メンバーは[[逮捕]]された。4月には皇帝暗殺事件関係者のペロフスカヤら5人が[[絞首刑]]に処せられた。


その6年後、[[1887年]][[3月1日]]に、[[アレクサンドル・ウリヤノフ]]([[ウラジーミル・レーニン]]の兄)らが皇帝[[アレクサンドル3世]]の暗殺に失敗し、組織は壊滅した。
その6年後、[[1887年]][[3月1日]]に、[[アレクサンドル・ウリヤノフ]]([[ウラジーミル・レーニン]]の兄)らが皇帝[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の暗殺に失敗し、組織は壊滅した。


== 影響 ==
== 影響 ==

2021年6月13日 (日) 09:32時点における版

人民の意志
前身 土地と自由英語版[1][2]
設立 1879年[1][2]
解散 1884年[1]
種類 秘密政治結社[1]
革命組織[2]
目的 帝政打倒[2]
立憲議会の樹立[2]
社会主義[2]
テロリズム[3]
主要機関 中央執行委員会[1]
関連組織 プロレタリアート党英語版(1884年2月以降)[4]
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人民の意志(じんみんのいし、ロシア語: Народная воля‎, ラテン文字転写: Narodnaya volya)は、ロシア帝国の反体制テロ組織[5]。組織的テロリズムの草分けともいうべき存在である。人民の自由とも呼ばれる。

概要

ナロードニキ秘密結社「土地と自由」から分裂した過激派によって1879年に結成された。フランス革命に影響を受け帝政の打倒と農村共同体を母体とした社会主義スローガンに掲げていたが大衆からは支持されていなかった。「最終的には革命は大衆の参加を必要とする」と考えていたがそのために最初に皇帝暗殺して大衆の価値観を変え、反乱勃発を促そうとしていた。1879年11月には、クリミアから帰還する皇帝を狙った、ツァーリ専用列車爆破を計画するが失敗し翌年には冬宮爆破事件をおこして5人を殺害した。

そして1881年3月1日にソフィア・ペロフスカヤ指揮のもとでアレクサンドル2世暗殺に成功する。この事件ではキバリチチ式手投げ爆弾が使用された。事件後の3月10日にアレクサンドル3世公開状をおくり、政治的自由の公布、大赦、制憲議会招集を条件にテロ中止を申し入れたが、政府はこれを無視して弾圧を加え主要メンバーは逮捕された。4月には皇帝暗殺事件関係者のペロフスカヤら5人が絞首刑に処せられた。

その6年後、1887年3月1日に、アレクサンドル・ウリヤノフウラジーミル・レーニンの兄)らが皇帝アレクサンドル3世の暗殺に失敗し、組織は壊滅した。

影響

この組織の戦略は国内外の革命家やテロ組織に大きな影響を与えた。

脚注

  1. ^ a b c d e 人民の意志(党)”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2019年6月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f じんみんのいしは【人民の意志派 Narodnaya volya】”. コトバンク. 世界大百科事典 第2版. 2019年6月7日閲覧。
  3. ^ ナロードニキ”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2019年6月7日閲覧。
  4. ^ 国際社会革命党「プロレタリアート」”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2019年6月7日閲覧。
  5. ^ 人民の意志”. コトバンク. デジタル大辞泉プラス. 2019年6月7日閲覧。

関連事項

外部リンク