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ヴァシーリーは母クセニヤとともにイギリスで暮らしたが、1920年代には単身で[[アメリカ合衆国]]に移住した。移住後はキャビン・ボーイ、造船工、株のブローカー、ワイン造醸業者、養鶏業者など職を転々とした。1980年、ヴァシーリーは兄の{{仮リンク|ドミトリー・アレクサンドロヴィチ (ロシア公)|label=ドミトリー・アレクサンドロヴィチ|en|Prince Dmitri Alexandrovich of Russia}}公から{{仮リンク|ロマノフ家協会|en|Romanov Family Association}}の総裁職を引き継ぎ、終身でその任にあった。1989年、[[カリフォルニア州]]{{仮リンク|ウッドサイド (カリフォルニア州)|label=ウッドサイド|en|Woodside, California}}で亡くなった。 |
ヴァシーリーは母クセニヤとともにイギリスで暮らしたが、1920年代には単身で[[アメリカ合衆国]]に移住した。移住後はキャビン・ボーイ、造船工、株のブローカー、ワイン造醸業者、養鶏業者など職を転々とした。1980年、ヴァシーリーは兄の{{仮リンク|ドミトリー・アレクサンドロヴィチ (ロシア公)|label=ドミトリー・アレクサンドロヴィチ|en|Prince Dmitri Alexandrovich of Russia}}公から{{仮リンク|ロマノフ家協会|en|Romanov Family Association}}の総裁職を引き継ぎ、終身でその任にあった。1989年、[[カリフォルニア州]]{{仮リンク|ウッドサイド (カリフォルニア州)|label=ウッドサイド|en|Woodside, California}}で亡くなった。 |
2021年6月13日 (日) 09:35時点における最新版
ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ Василий Александрович | |
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ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 | |
ヴァシーリー公(1923年) | |
称号 | ロシア公 |
出生 |
1907年7月7日 ロシア帝国、ガッチナ、ガッチナ宮殿 |
死去 |
1989年6月23日(81歳没) アメリカ合衆国、カリフォルニア州ウッドサイド |
埋葬 |
1989年7月7日 アメリカ合衆国、カリフォルニア州サンマテオ郡コルマ、セルビア人墓地 |
配偶者 | ナタリヤ・ゴリツィン |
子女 | マリヤ |
父親 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ |
母親 | クセニヤ・アレクサンドロヴナ |
宗教 | キリスト教正教会 |
ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ(ロシア語: Василий Александрович, 1907年7月7日 - 1989年6月23日)は、ロシアの皇族。
生涯[編集]
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公とその妃クセニヤ・アレクサンドロヴナ大公女の間の六男(第7子、末子)としてガッチナ宮殿で生まれた。ヴァシーリーは皇帝アレクサンドル3世の外孫であったが、男系血統ではニコライ1世の曾孫でしかないため、兄たちと同様にロシア大公の称号を許されなかった。ロシア革命後、ヴァシーリーは両親や兄姉、外祖母マリヤ・フョードロヴナ皇太后らの皇族とともにクリミアに監禁された。クリミアに集められた皇族たちは、皇帝一家と同様に処刑される予定だったが、1918年にドイツ軍によって解放された。翌1919年、ヴァシーリーは一族とともにイギリス政府の差し向けた戦艦「マールバラ」に乗ってイギリスに亡命した。
ヴァシーリーは母クセニヤとともにイギリスで暮らしたが、1920年代には単身でアメリカ合衆国に移住した。移住後はキャビン・ボーイ、造船工、株のブローカー、ワイン造醸業者、養鶏業者など職を転々とした。1980年、ヴァシーリーは兄のドミトリー・アレクサンドロヴィチ公からロマノフ家協会の総裁職を引き継ぎ、終身でその任にあった。1989年、カリフォルニア州ウッドサイドで亡くなった。
子女[編集]
1931年、ニューヨークで亡命ロシア人貴族の公爵令嬢ナタリヤ・ゴリツィン(1907年 - 1980年)と結婚した。ナタリヤとの間に1女を儲けた。
- マリヤ(1940年 - ) - 1967年、ウィリアム・ビードルストンと結婚