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'''ニキータ・アレクサンドロヴィチ'''({{lang-ru|Никита Александрович}}, [[1900年]][[1月13日]] - [[1974年]][[9月12日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族。[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の曾孫、[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の外孫。 |
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ニキータは[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ]]大公とその妻[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニヤ・アレクサンドロヴナ]]大公女の間の第4子、三男として[[サンクトペテルブルク]]で生まれた。皇帝[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の外孫であったが、男系血統では[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の曾孫でしかないため、兄弟たちと同様に[[ロシア大公]]の称号を授けられなかった。 |
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[[ロシア革命]]が始まると、ニキータは両親や兄弟、祖母[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリヤ]]皇太后らの皇族や貴族と一緒に[[クリミア]]に幽閉された。クリミアに集められた皇族も、他の皇族と同様に処刑されるはずだったが、1918年に[[ブレスト=リトフスク条約]]が結ばれたおかげでクリミアはドイツ軍の占領地域となり、ニキータたちは難を免れた。1919年、ニキータは一族とともに、イギリス政府の差し向けた戦艦「[[マールバラ (戦艦)|マールバラ]]」号に乗り込んでロシアを出国した。 |
2021年6月13日 (日) 09:35時点における版
ニキータ・アレクサンドロヴィチ Никита Александрович | |
---|---|
ニキータ公、1919年 | |
出生 |
1900年1月13日 ロシア帝国、サンクトペテルブルク |
死去 |
1974年9月12日(74歳没) フランス、カンヌ |
配偶者 | マリヤ・ヴォロンツォワ=ダーシュコワ |
子女 |
ニキータ アレクサンドル |
家名 | ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 |
父親 | アレクサンドル・ミハイロヴィチ |
母親 | クセニヤ・アレクサンドロヴナ |
ニキータ・アレクサンドロヴィチ(ロシア語: Никита Александрович, 1900年1月13日 - 1974年9月12日)は、ロシアの皇族。ニコライ1世の曾孫、アレクサンドル3世の外孫。
生涯
ニキータはアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公とその妻クセニヤ・アレクサンドロヴナ大公女の間の第4子、三男としてサンクトペテルブルクで生まれた。皇帝アレクサンドル3世の外孫であったが、男系血統ではニコライ1世の曾孫でしかないため、兄弟たちと同様にロシア大公の称号を授けられなかった。
ロシア革命が始まると、ニキータは両親や兄弟、祖母マリヤ皇太后らの皇族や貴族と一緒にクリミアに幽閉された。クリミアに集められた皇族も、他の皇族と同様に処刑されるはずだったが、1918年にブレスト=リトフスク条約が結ばれたおかげでクリミアはドイツ軍の占領地域となり、ニキータたちは難を免れた。1919年、ニキータは一族とともに、イギリス政府の差し向けた戦艦「マールバラ」号に乗り込んでロシアを出国した。
ニキータは1922年、パリでマリヤ・ヴォロンツォワ=ダーシュコワ伯爵令嬢(1903年 - 1997年)と結婚した。夫妻は2人の息子をもうけた。
ニキータは1974年にカンヌで亡くなった。