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「ナデジダ・マウントバッテン (ミルフォード・ヘイヴン侯爵夫人)」の版間の差分

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'''ナデジダ・ミハイロヴナ・マウントバッテン'''({{lang-en|'''Nadejda Mikhailovna Mountbatten''', Marchioness of Milford Haven}}、[[1896年]][[3月28日]] - [[1963年]][[1月22日]])は、[[ロシア]]出身の[[イギリス]]貴族夫人。第2代[[ミルフォード・ヘイヴン侯爵]][[ジョージ・マウントバッテン (第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵)|ジョージ・マウントバッテン]]の妻。出生時の名前は'''ナデジダ・ミハイロヴナ・ド・トービー'''('''Nadejda Mikhailovna de Torby''')、[[ロシア語]]名は'''ナジェージダ・ミハイロヴナ・デ・トルビ'''({{lang-ru|'''Надежда Михайловна де Торби'''}})。愛称は'''ナーダ'''('''Nada''')。
'''ナデジダ・ミハイロヴナ・マウントバッテン'''({{lang-en|'''Nadejda Mikhailovna Mountbatten''', Marchioness of Milford Haven}}、[[1896年]][[3月28日]] - [[1963年]][[1月22日]])は、[[ロシア]]出身の[[イギリス]]貴族夫人。第2代[[ミルフォード・ヘイヴン侯爵]][[ジョージ・マウントバッテン (第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵)|ジョージ・マウントバッテン]]の妻。出生時の名前は'''ナデジダ・ミハイロヴナ・ド・トービー'''('''Nadejda Mikhailovna de Torby''')、[[ロシア語]]名は'''ナジェージダ・ミハイロヴナ・デ・トルビ'''({{lang-ru|'''Надежда Михайловна де Торби'''}})。愛称は'''ナーダ'''('''Nada''')。


ロシア皇帝[[アレクサンドル3世]]の従弟にあたる[[ミハイル・ミハイロヴィチ]][[ロシア大公|大公]]と、その妻のメーレンベルク伯爵夫人[[ゾフィー・フォン・メーレンベルク|ゾフィー]]の間の次女として、[[フランス]]の[[カンヌ]]で生まれた。両親の結婚はロシア帝室の家内法に抵触する[[貴賤結婚]]だったため、間に生まれた子供たちはロシア帝室の正式な成員とは認められなかった。ナーダとその姉[[アナスタシア・ド・トービー|アナスタシア(ジーア)]]、弟ミハイル(1898年 - 1959年)は、母が結婚に際して伯父のルクセンブルク大公[[アドルフ (ルクセンブルク大公)|アドルフ]]から与えられたトービー伯爵(夫人)の称号を名乗った。母方の曽祖父には貴族で小説家の[[アレクサンドル・プーシキン]]がいる。プーシキンの曽祖父はアフリカ系黒人で[[貴族]]・[[少将]]であった[[アブラム・ガンニバル]]である。
ロシア皇帝[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の従弟にあたる[[ミハイル・ミハイロヴィチ]][[ロシア大公|大公]]と、その妻のメーレンベルク伯爵夫人[[ゾフィー・フォン・メーレンベルク|ゾフィー]]の間の次女として、[[フランス]]の[[カンヌ]]で生まれた。両親の結婚はロシア帝室の家内法に抵触する[[貴賤結婚]]だったため、間に生まれた子供たちはロシア帝室の正式な成員とは認められなかった。ナーダとその姉[[アナスタシア・ド・トービー|アナスタシア(ジーア)]]、弟ミハイル(1898年 - 1959年)は、母が結婚に際して伯父のルクセンブルク大公[[アドルフ (ルクセンブルク大公)|アドルフ]]から与えられたトービー伯爵(夫人)の称号を名乗った。母方の曽祖父には貴族で小説家の[[アレクサンドル・プーシキン]]がいる。プーシキンの曽祖父はアフリカ系黒人で[[貴族]]・[[少将]]であった[[アブラム・ガンニバル]]である。


[[第一次世界大戦]]中の1916年11月15日にロンドンにおいて、ドイツ系貴族の[[バッテンベルク家|バッテンベルク公]][[ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン|ルイス・アレグザンダー]]の長男ジョージと結婚した。夫は[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の曾孫の1人として、イギリスのオルダーニー子爵(''Viscount Alderney'')の爵位を有していた。翌1917年に舅のバッテンベルク公がイギリスに帰化してミルフォード・ヘイヴン侯爵位を受けたのに伴い、夫が同侯爵位の相続人としてメディナ伯爵の[[儀礼称号]]を帯びたため、メディナ伯爵夫人となった。1921年には夫の襲爵によりミルフォード・ヘイヴン侯爵夫人となった。
[[第一次世界大戦]]中の1916年11月15日にロンドンにおいて、ドイツ系貴族の[[バッテンベルク家|バッテンベルク公]][[ルイス・アレグザンダー・マウントバッテン|ルイス・アレグザンダー]]の長男ジョージと結婚した。夫は[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の曾孫の1人として、イギリスのオルダーニー子爵(''Viscount Alderney'')の爵位を有していた。翌1917年に舅のバッテンベルク公がイギリスに帰化してミルフォード・ヘイヴン侯爵位を受けたのに伴い、夫が同侯爵位の相続人としてメディナ伯爵の[[儀礼称号]]を帯びたため、メディナ伯爵夫人となった。1921年には夫の襲爵によりミルフォード・ヘイヴン侯爵夫人となった。

2021年6月13日 (日) 09:35時点における版

ナデジダ・ド・トービー
Nadejda de Torby
トービー伯爵夫人ナーダ、1914年頃

出生 (1896-03-28) 1896年3月28日
フランスの旗 フランス共和国カンヌ
死去 (1963-01-22) 1963年1月22日(66歳没)
フランスの旗 フランスカンヌ
配偶者 第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ジョージ・マウントバッテン
子女 タティアナ
デイヴィッド
家名 ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家
父親 ミハイル・ミハイロヴィチ
母親 ゾフィー・フォン・メーレンベルク
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ロシア語の雑誌に掲載されたナーダの写真、1910年代後半

ナデジダ・ミハイロヴナ・マウントバッテン英語: Nadejda Mikhailovna Mountbatten, Marchioness of Milford Haven1896年3月28日 - 1963年1月22日)は、ロシア出身のイギリス貴族夫人。第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ジョージ・マウントバッテンの妻。出生時の名前はナデジダ・ミハイロヴナ・ド・トービーNadejda Mikhailovna de Torby)、ロシア語名はナジェージダ・ミハイロヴナ・デ・トルビロシア語: Надежда Михайловна де Торби)。愛称はナーダNada)。

ロシア皇帝アレクサンドル3世の従弟にあたるミハイル・ミハイロヴィチ大公と、その妻のメーレンベルク伯爵夫人ゾフィーの間の次女として、フランスカンヌで生まれた。両親の結婚はロシア帝室の家内法に抵触する貴賤結婚だったため、間に生まれた子供たちはロシア帝室の正式な成員とは認められなかった。ナーダとその姉アナスタシア(ジーア)、弟ミハイル(1898年 - 1959年)は、母が結婚に際して伯父のルクセンブルク大公アドルフから与えられたトービー伯爵(夫人)の称号を名乗った。母方の曽祖父には貴族で小説家のアレクサンドル・プーシキンがいる。プーシキンの曽祖父はアフリカ系黒人で貴族少将であったアブラム・ガンニバルである。

第一次世界大戦中の1916年11月15日にロンドンにおいて、ドイツ系貴族のバッテンベルク公ルイス・アレグザンダーの長男ジョージと結婚した。夫はヴィクトリア女王の曾孫の1人として、イギリスのオルダーニー子爵(Viscount Alderney)の爵位を有していた。翌1917年に舅のバッテンベルク公がイギリスに帰化してミルフォード・ヘイヴン侯爵位を受けたのに伴い、夫が同侯爵位の相続人としてメディナ伯爵の儀礼称号を帯びたため、メディナ伯爵夫人となった。1921年には夫の襲爵によりミルフォード・ヘイヴン侯爵夫人となった。

ナーダは1934年、欧米の注目を集めていたアメリカ合衆国の鉄道王ヴァンダービルト家のお家騒動に巻き込まれた。グロリア・ローラ・ヴァンダービルトの養育権をめぐる裁判中、その母親グロリア・モーガン・ヴァンダービルトの元メイドが法廷において、自分の元雇い主とミルフォード・ヘイヴン侯爵夫人がレスビアン関係にある、という発言をしたのである[1][2][3]。この件に関し、ナーダはこのメイドの証言について、「悪意のある、ひどい嘘の数々("a set of malicious, terrible lies".)」として公の場で否定している[4]。またナーダは義弟ルイス・マウントバッテン卿の妻エドウィナとは非常に仲の良い親友で、しばしば2人で世界中の様々な危険地帯、難所を冒険する旅行に出かけており、2人の間柄を同性愛だとする噂がささやかれていた[5]

夫との間にはタティアナ・マウントバッテン(1917年 - 1988年)、第3代侯爵となるデイヴィッド・マウントバッテン(1919年 - 1970年)の1男1女をもうけた。1938年に夫と死別した後、1963年にカンヌで死去した。

脚注

  1. ^ Goldsmith, Barbara, ed. (1982), Little Gloria...Happy at Last, Dell, ISBN 0440151201, http://books.google.com/books?id=eWHchDT559sC&q=little+gloria+happy+at+last&dq=little+gloria+happy+at+last&hl=en&ei=_U1lTIqDMoucsQOin6mCDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CC0Q6AEwAA 2010年8月13日閲覧。 
  2. ^ Vanderbilt Case Delayed; 3 Crossing Ocean to Help”. Gettysburg Times. 2010年8月13日閲覧。
  3. ^ Judge May Close Court's Doors On Vanderbilt Fuss Over Custody Of Heiress”. The Evening Independent (1934年10月4日). 2010年8月13日閲覧。
  4. ^ Nobility Hastens To Defense Of Gloria”. San Jose Times (1934年10月4日). 2010年8月13日閲覧。
  5. ^ Hough, Richard (1984). Edwina Countess Mountbatten of Burma. New York: William Morrow and Company, Inc.. ISBN 0-688-03766-6