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'''イリナ・フェリクソヴナ・ユスポヴァ公女'''({{翻字併記|ru|Ирина Феликсовна Юсупова|Princess Irina Felixovna Yusupova}}、[[1915年]][[3月21日]] - [[1983年]][[8月30日]])は、[[ロシア帝国]]・{{仮リンク|ユスポフ家|en|House of Yusupov}}の家長[[フェリックス・ユスポフ|フェリックス・ユスポフ公爵]]と[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の孫娘[[イリナ・アレクサンドロヴナ|イリナ・アレクサンドロヴナ公女]]の間に生まれた唯一の子供である。 |
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イリナは[[1915年]]3月21日に[[ロシア帝国]]の首都[[サンクトペテルブルク]]にある[[モイカ宮殿]]において生まれ、母親と同じ名前が付けられた。父親の[[フェリックス・ユスポフ]]は[[ヨーロッパ]]屈指の裕福な名門一家、{{仮リンク|ユスポフ家|en|House of Yusupov}}の家長であった。母親の[[イリナ・アレクサンドロヴナ]]は[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の長女で[[ニコライ2世]]の妹[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア・アレクサンドロヴナ大公女]]と、ロシア皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の孫息子[[アレクサンドル・ミハイロヴィチ (ロシア大公)|アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公]]の長女であった。この二人の唯一の子供であった。 |
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イリナと彼女の両親、祖父母、曽祖母らは[[2月革命 (1917年)|二月革命]]後に[[クリミア半島|クリミア]]に監禁されていたが、[[1919年]]に[[イギリス海軍]]の[[巡洋艦]]「[[マールバラ (戦艦)|マールバラ]]」によって救出され、[[フランス]]に亡命することになった。母とは非常に疎遠な関係であり、乳母に育てられ、父を敬愛しながら成長した<ref>[[#King(1996 年)|King(1996 年)]]</ref>。 |
2021年6月13日 (日) 09:38時点における版
イリナ・フェリクソヴナ・ユスポヴァ Ирина Феликсовна Юсупова | |
---|---|
ユスポフ家 | |
イリナ・ユスポヴァ(1935年) | |
身位 | ロシア公女 |
出生 |
1915年3月21日 ロシア帝国、ペトログラード |
死去 |
1983年8月30日(68歳没) フランス、コルメイユ=ザン=パリジ |
埋葬 | サント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワのロシア人墓地 |
配偶者 | ニコライ・ドミトリエヴィチ・シェレメーテフ伯爵 |
子女 | クセニア・ニコラエヴナ・シェレメーテヴァ |
父親 | フェリックス・ユスポフ公爵 |
母親 | イリナ・アレクサンドロヴナ公女 |
宗教 | ロシア正教会 |
イリナ・フェリクソヴナ・ユスポヴァ公女(ロシア語: Ирина Феликсовна Юсупова, ラテン文字転写: Princess Irina Felixovna Yusupova、1915年3月21日 - 1983年8月30日)は、ロシア帝国・ユスポフ家の家長フェリックス・ユスポフ公爵とロシア皇帝アレクサンドル3世の孫娘イリナ・アレクサンドロヴナ公女の間に生まれた唯一の子供である。
両親
イリナは1915年3月21日にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクにあるモイカ宮殿において生まれ、母親と同じ名前が付けられた。父親のフェリックス・ユスポフはヨーロッパ屈指の裕福な名門一家、ユスポフ家の家長であった。母親のイリナ・アレクサンドロヴナはロシア皇帝アレクサンドル3世の長女でニコライ2世の妹クセニア・アレクサンドロヴナ大公女と、ロシア皇帝ニコライ1世の孫息子アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の長女であった。この二人の唯一の子供であった。
イリナと彼女の両親、祖父母、曽祖母らは二月革命後にクリミアに監禁されていたが、1919年にイギリス海軍の巡洋艦「マールバラ」によって救出され、フランスに亡命することになった。母とは非常に疎遠な関係であり、乳母に育てられ、父を敬愛しながら成長した[1]。
結婚と死
イリナは1938年6月19日にニコライ・ドミトリエヴィチ・シェレメーテフ伯爵(1904年10月28日生まれ - 1979年2月5日没)と結婚し、二人の間には唯一の子供クセニア・シェレメーテヴァ(1942年3月1日生まれ - 存命中)が生まれた[2][3][4]。
結婚して夫の姓を名乗り、ギリシャにやって来たイリナはそこでギリシャのオランダ大使夫人であるロシア人女性と知り合い、無二の親友になった。彼女は別れがやって来た時に初めて、自分がラスプーチンの孫娘であることを明かした。イリナも彼女に自分がラスプーチンの殺人者の娘であることを話したという[5]。
イリナは1983年8月30日に68歳で亡くなり、サント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワのロシア人墓地に埋葬された[3]。
子孫
イリナの娘クセニアはギリシャ国籍の男性イリアス・スフィリス(1932年8月20日生まれ - 存命中)と1965年6月20日に結婚し、二人の間には唯一の子供タチアナ・スフィリス(1968年8月28日生まれ - 存命中)が生まれた[2][4][6]。1992年に、殺害されたニコライ2世の遺骨から抽出されたミトコンドリアDNAを血縁者のものと比較してパヴェル・イワノフ博士が確認作業を行った際には、ニコライ2世の妹オリガ・アレクサンドロヴナ大公女とニコライ・クリコフスキーの長男(当時唯一存命していたニコライ2世の甥)であるティクオン・クリコフスキーがロシア人にもかかわらずイギリスで調査に励むイワノフ博士に対して不満の意を表明して骨の調査を全部でたらめだと言い、「政治的な理由」により血液標本の提供を断固として拒否したのと対照的に、クセニアは献血を即座に承諾した。もう一人の献血協力者はスコットランドに住む貴族であり、ニコライ2世の母マリア・フョードロヴナの姉でイギリス国王エドワード7世と結婚したアレクサンドラ・オブ・デンマークから見て孫娘にあたるモード王女の息子、ジェームズ・カーネギー公爵であった。カーネギーも喜んで承諾したものの、匿名という条件を付けたが、結局は事実が漏れて世間に知れ渡ってしまった[7]。
イリナの孫娘タチアナは二度目に結婚したアンソニー・バンバキディスとの間に二人の娘マリリア(2004年生まれ)とヤスミン・クセニア(2006年生まれ)をもうけた[2][6]。
脚注
- ^ King(1996 年)
- ^ a b c “О дворце” (ロシア語). История рода Юсуповых. 2014年7月22日閲覧。
- ^ a b julia&keld (2011年4月25日). “Irina Felixovna Youssoupoff Cheremeteva (1915 - 1983)” (英語). Find A Grave Memorial. 2014年7月22日閲覧。
- ^ a b Henri Frebault. “Xenia NikolaïevnaSheremeteva-Yusupova” (英語). Geneanet.org. 2014年7月22日閲覧。
- ^ ラジンスキー下(2004年) pp.424-425
- ^ a b Henri Frebault. “TatianaSfiris” (英語). Geneanet.org. 2014年7月22日閲覧。
- ^ マッシー(1999年) pp.135-138
参考文献
- Greg King (1996) (英語). The Man Who Killed Rasputin: Prince Youssoupov and the Murder That Helped Bring Down the Russian Empire. Birch Lane Pr. ISBN 978-1559722957
- Edvard Radzinsky『真説 ラスプーチン 下』沼野充義、望月哲男、NHK出版、2004年。ISBN 978-4140808580。
- Robert K. Massie『ロマノフ王家の終焉―ロシア最後の皇帝ニコライ二世とアナスタシア皇女をめぐる物語』今泉菊雄、鳥影社、1999年。ISBN 978-4886294333。