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'''パーヴェル・ニコラエヴィッチ・イグナチェフ'''({{Lang|rus|Павел Николаевич Игнатьев}}, [[1870年]]8月 - [[1945年]][[8月12日]])は、[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の[[政治家]]。[[1915年]]から[[1917年]]まで[[ニコライ2世]]の下で、[[ロシア帝国教育大臣|教育大臣]]兼[[宮中顧問官]]を務めた。
'''パーヴェル・ニコラエヴィッチ・イグナチェフ'''({{Lang|rus|Павел Николаевич Игнатьев}}, [[1870年]]8月 - [[1945年]][[8月12日]])は、[[ロシア帝国|帝政ロシア]]の[[政治家]]。[[1915年]]から[[1917年]]まで[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の下で、[[ロシア帝国教育大臣|教育大臣]]兼[[宮中顧問官]]を務めた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2021年6月13日 (日) 10:01時点における版

パーヴェル・イグナチェフ

パーヴェル・ニコラエヴィッチ・イグナチェフПавел Николаевич Игнатьев, 1870年8月 - 1945年8月12日)は、帝政ロシア政治家1915年から1917年までニコライ2世の下で、教育大臣宮中顧問官を務めた。

経歴

父はアレクサンドル3世の時代に内務大臣を務めたニコライ・パヴロヴィッチ・イグナチェフ伯爵。キエフ大学を卒業後1903年4月16日、ナターシャ・ニコラエヴナ・メスツェレスキー公爵令嬢(1877年 - 1944年)とフランスニースで結婚し、5人の男子を儲けた。1909年に農業省に入省し1912年に同副大臣、第一次世界大戦中の1915年に教育相に任命された。

1918年ロシア革命が起こると、イグナチェフは逮捕され処刑が決まった。しかし彼が教育相在任中に行ったポーランド語の権利などに関する進歩的政策を評価していたポーランド人コミッサールにより命を救われ、1919年に家族とともにヨーロッパに亡命した。イグナチェフはニコライ2世の閣僚中、唯一処刑を免れることができた。イギリスサセックスを経て1925年にイグナチェフ一家はカナダに移り、3年後にケベック州上メルボルン(Upper Melbourne)に定住した。イグナチェフの一子ゲオルギー(ジョージ)・イグナチェフはカナダの著名な外交官となった。孫の一人、マイケル・イグナチェフは作家、ハーバード大学教授を経て、カナダの下院議員、カナダ自由党党首となった。

参考