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「マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)」の版間の差分

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マリアは非常に人見知りが激しく、慣れない人にはぎこちなく接し、服装に好みがなく、議論もできず、魅力がない女性だと見なされがちだった。母ヴィルヘルミーネに似て呼吸器官が弱く、咳や周期的な発熱に苦しみ、[[サンクトペテルブルク]]の気候が合わなかった。それにも関わらず、彼女は8人の子供の母親となった。絶え間ない妊娠は病を伴い、多くの行事が重なる宮廷から彼女を遠ざけた。それは同時に、アレクサンドルに誘惑の機会をもたらした。マリアは後にアレクサンドルが不貞を働き、多くの愛妾を抱えていることを知った。アレクサンドルは自らがマリア付きの女官に任命した愛妾の[[エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ|エカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ]]を特に愛し、彼女との間にできた3人の庶子たちと宮殿に住んでいた(彼らは、マリアが1880年6月に亡くなると、わずか1ヶ月後に[[貴賤結婚]]をした)。1855年にアレクサンドルは皇帝に即位。彼はマリアの体調が安定しようがしまいが、公務に付き合わせた。マリアの最も愛した皇太子[[ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公|ニコライ]]の1865年の死は、彼女に非常な打撃を与えた。
マリアは非常に人見知りが激しく、慣れない人にはぎこちなく接し、服装に好みがなく、議論もできず、魅力がない女性だと見なされがちだった。母ヴィルヘルミーネに似て呼吸器官が弱く、咳や周期的な発熱に苦しみ、[[サンクトペテルブルク]]の気候が合わなかった。それにも関わらず、彼女は8人の子供の母親となった。絶え間ない妊娠は病を伴い、多くの行事が重なる宮廷から彼女を遠ざけた。それは同時に、アレクサンドルに誘惑の機会をもたらした。マリアは後にアレクサンドルが不貞を働き、多くの愛妾を抱えていることを知った。アレクサンドルは自らがマリア付きの女官に任命した愛妾の[[エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ|エカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ]]を特に愛し、彼女との間にできた3人の庶子たちと宮殿に住んでいた(彼らは、マリアが1880年6月に亡くなると、わずか1ヶ月後に[[貴賤結婚]]をした)。1855年にアレクサンドルは皇帝に即位。彼はマリアの体調が安定しようがしまいが、公務に付き合わせた。マリアの最も愛した皇太子[[ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公|ニコライ]]の1865年の死は、彼女に非常な打撃を与えた。


マリアは貴賤結婚をしてハイリゲンベルクに住む兄アレクサンダーをしばしば訪ねた。そこで、彼女の甥[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]と結婚した[[イギリス]]王女[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]と出会った。マリアは、アリスからアリスの弟[[エディンバラ公]]アルフレッド([[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ]]公[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレート]])とマリアの娘であるロシア大公女との縁組みを打診されたが、これは後に成立した。1878年にアリスが病死すると、彼女の遺児たちに会いにしばしばハイリゲンベルクを訪れた。母の訪問に同行した[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公|セルゲイ大公]]は、ここで未来の妻[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]]を見初めるのである。また、エリーザベトの妹[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アリックス]]は、マリアの孫[[ニコライ2世]]の皇后となる。
マリアは貴賤結婚をしてハイリゲンベルクに住む兄アレクサンダーをしばしば訪ねた。そこで、彼女の甥[[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ルートヴィヒ4世]]と結婚した[[イギリス]]王女[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]と出会った。マリアは、アリスからアリスの弟[[エディンバラ公]]アルフレッド([[ザクセン=コーブルク=ゴータ公国|ザクセン=コーブルク=ゴータ]]公[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレート]])とマリアの娘であるロシア大公女との縁組みを打診されたが、これは後に成立した。1878年にアリスが病死すると、彼女の遺児たちに会いにしばしばハイリゲンベルクを訪れた。母の訪問に同行した[[セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公|セルゲイ大公]]は、ここで未来の妻[[エリザヴェータ・フョードロヴナ|エリーザベト]]を見初めるのである。また、エリーザベトの妹[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アリックス]]は、マリアの孫[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の皇后となる。


1880年に死去し、没後の1888年には息子たちにより、[[エルサレム]]に母マリアを記念する[[マグダラのマリア教会]]が建造された<ref name=":0">{{Cite web|title=Convent of Saint Mary Magdalene|url=https://www.jerusalem-mission.org/convent_magdalene.html|website=www.jerusalem-mission.org|accessdate=2020-11-29}}</ref>。[[マグダラのマリア]]は生前のマリアの守護聖人であった<ref name=":0" />。
1880年に死去し、没後の1888年には息子たちにより、[[エルサレム]]に母マリアを記念する[[マグダラのマリア教会]]が建造された<ref name=":0">{{Cite web|title=Convent of Saint Mary Magdalene|url=https://www.jerusalem-mission.org/convent_magdalene.html|website=www.jerusalem-mission.org|accessdate=2020-11-29}}</ref>。[[マグダラのマリア]]は生前のマリアの守護聖人であった<ref name=":0" />。

2021年6月13日 (日) 10:07時点における版

マリア・アレクサンドロヴナ
Мари́я Алекса́ндровна
ロシア皇后
在位 1855年3月2日 - 1880年6月3日
戴冠式 1856年9月7日
別称号 フィンランド大公妃

全名 Maximiliane Wilhelmine Auguste Sophie Marie
マクシミリアーネ・ヴィルヘルミーネ・アウグステ・ゾフィー・マリー
出生 1824年8月8日
ヘッセン大公国ダルムシュタット
死去 (1880-06-03) 1880年6月3日(55歳没)
ロシア帝国ペテルブルク
埋葬 ロシア帝国ペテルブルク首座使徒ペトル・パウェル大聖堂
結婚 1841年4月28日
配偶者 ロシア皇帝アレクサンドル2世
子女
家名 ヘッセン=ダルムシュタット家
父親 ヘッセン大公ルートヴィヒ2世(公式)
アウグスト・フォン・スナルクラン・ド・グランシー男爵
母親 ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデン
テンプレートを表示
皇后マリア
マリア・アレクサンドロヴナ、1857[1]
マリア・アレクサンドロヴナ、 文久遣欧使節漢方医高嶋祐啓画

マリア・アレクサンドロヴナロシア語: Мари́я Алекса́ндровна, ラテン文字転写: Maria Alexandrovna, 1824年8月8日 - 1880年6月3日)は、ロシア皇帝アレクサンドル2世の皇后。ヘッセン大公女マクシミリアーネ・ヴィルヘルミーネ・アウグステ・ゾフィー・マリー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(Maximiliane Wilhelmine Auguste Sophie Marie von Hessen-Darmstadt)として生まれた。

生涯

出生

マリーは、ヘッセン大公妃ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデンが生んだ7人の子のうちの末子だが、ヴィルヘルミーネの生んだ子供たちのうち下から4人の父親は、彼女の愛人アウグスト・フォン・スナルクラン・ド・グランシー男爵だった。醜聞を避けるため、夫のヘッセン大公ルートヴィヒ2世が4人を認知したのである。このため、4人のうち生き残った2人、マリーと兄アレクサンダーは、大公の住むダルムシュタットではなくハイリゲンベルクで育てられた。

1838年、結婚相手を求めてドイツを旅していたロシア皇太子アレクサンドルは14歳のマリーを見初めた。彼はマリーが「不義の子」であることを承知で結婚を決意し、難色を示した母・皇后アレクサンドラ・フョードロヴナを押し切った。2人は1841年4月に婚配機密を受け、マリーは名をマリア・アレクサンドロヴナに改めた。

結婚生活

マリアは非常に人見知りが激しく、慣れない人にはぎこちなく接し、服装に好みがなく、議論もできず、魅力がない女性だと見なされがちだった。母ヴィルヘルミーネに似て呼吸器官が弱く、咳や周期的な発熱に苦しみ、サンクトペテルブルクの気候が合わなかった。それにも関わらず、彼女は8人の子供の母親となった。絶え間ない妊娠は病を伴い、多くの行事が重なる宮廷から彼女を遠ざけた。それは同時に、アレクサンドルに誘惑の機会をもたらした。マリアは後にアレクサンドルが不貞を働き、多くの愛妾を抱えていることを知った。アレクサンドルは自らがマリア付きの女官に任命した愛妾のエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァを特に愛し、彼女との間にできた3人の庶子たちと宮殿に住んでいた(彼らは、マリアが1880年6月に亡くなると、わずか1ヶ月後に貴賤結婚をした)。1855年にアレクサンドルは皇帝に即位。彼はマリアの体調が安定しようがしまいが、公務に付き合わせた。マリアの最も愛した皇太子ニコライの1865年の死は、彼女に非常な打撃を与えた。

マリアは貴賤結婚をしてハイリゲンベルクに住む兄アレクサンダーをしばしば訪ねた。そこで、彼女の甥ルートヴィヒ4世と結婚したイギリス王女アリスと出会った。マリアは、アリスからアリスの弟エディンバラ公アルフレッド(ザクセン=コーブルク=ゴータアルフレート)とマリアの娘であるロシア大公女との縁組みを打診されたが、これは後に成立した。1878年にアリスが病死すると、彼女の遺児たちに会いにしばしばハイリゲンベルクを訪れた。母の訪問に同行したセルゲイ大公は、ここで未来の妻エリーザベトを見初めるのである。また、エリーザベトの妹アリックスは、マリアの孫ニコライ2世の皇后となる。

1880年に死去し、没後の1888年には息子たちにより、エルサレムに母マリアを記念するマグダラのマリア教会が建造された[2]マグダラのマリアは生前のマリアの守護聖人であった[2]

子女

脚注

  1. ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、165頁。ISBN 978-4-334-03811-3 
  2. ^ a b Convent of Saint Mary Magdalene”. www.jerusalem-mission.org. 2020年11月29日閲覧。

関連項目

彼女の名前にちなんで、下記の名前がつけられた。

先代
アレクサンドラ・フョードロヴナ
ロシア皇后
フィンランド大公妃
1855年 - 1880年
次代
マリア・フョードロヴナ