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[[File:AnastasiaOlgaAlexandrovna.jpg|thumb|right|250px|皇室ヨット『[[スタンダルト (ヨット)|スタンダルト]]』号にて姪の[[アナスタシア・ニコラエヴナ|アナスタシア皇女]]と(1912年頃)]] |
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'''オリガ・アレクサンドロヴナ'''({{翻字併記|ru|'''О́льга Алекса́ндровна Рома́нова'''|'''Olga Alexandrovna Romanova'''}}、[[1882年]][[6月13日]] - [[1960年]][[11月24日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア君主一覧|皇帝]][[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]と皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]の第2皇女。[[ロシア大公女]]。兄に皇帝[[ニコライ2世]]と[[ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ|ゲオルギー大公]]と[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル大公]]、姉に[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア大公女]]がいる。父親アレクサンドル3世と一番年の近い兄ミハイルには可愛がられて非常に仲が良かったが、母親マリアとは不仲であった。 |
'''オリガ・アレクサンドロヴナ'''({{翻字併記|ru|'''О́льга Алекса́ндровна Рома́нова'''|'''Olga Alexandrovna Romanova'''}}、[[1882年]][[6月13日]] - [[1960年]][[11月24日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]][[ロシア君主一覧|皇帝]][[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]と皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア・フョードロヴナ]]の第2皇女。[[ロシア大公女]]。兄に皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]と[[ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ|ゲオルギー大公]]と[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル大公]]、姉に[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア大公女]]がいる。父親アレクサンドル3世と一番年の近い兄ミハイルには可愛がられて非常に仲が良かったが、母親マリアとは不仲であった。 |
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== 生涯 == |
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不仲だった母マリア皇太后から逃れるために、1901年に最初の夫[[ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルクスキー]]公爵(オルデンブルク公子ペーター)と結婚したが、1916年に離婚し、すぐに愛人で金も資産も無い兵士の{{仮リンク|ニコライ・クリコフスキー|en|Nikolai Kulikovsky}}と[[貴賤結婚]]した。滅亡した王朝だったとはいえ、当時、元皇女が身分の低い男性と結婚するなど考えられない事だった。 |
不仲だった母マリア皇太后から逃れるために、1901年に最初の夫[[ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルクスキー]]公爵(オルデンブルク公子ペーター)と結婚したが、1916年に離婚し、すぐに愛人で金も資産も無い兵士の{{仮リンク|ニコライ・クリコフスキー|en|Nikolai Kulikovsky}}と[[貴賤結婚]]した。滅亡した王朝だったとはいえ、当時、元皇女が身分の低い男性と結婚するなど考えられない事だった。 |
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[[ニコライ2世]]の弟や妹の中では唯一、彼の妻[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]に同情的で、一家と親しい付き合いをしていた<ref>{{Cite book|author=[[ジェイムズ・B・ラヴェル]](著)、[[広瀬順弘]](訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=[[角川文庫]]|page=55|isbn=978-4042778011}}</ref>。 |
[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の弟や妹の中では唯一、彼の妻[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]に同情的で、一家と親しい付き合いをしていた<ref>{{Cite book|author=[[ジェイムズ・B・ラヴェル]](著)、[[広瀬順弘]](訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=[[角川文庫]]|page=55|isbn=978-4042778011}}</ref>。 |
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最初の夫とは夫婦生活は全くなかったため子供はおらず、2番目の夫との間にチホン(1917年 - 1993年)、グーリ(1919年 - 1984年)という2人の息子をもうけた。[[ロシア革命]]が勃発すると、母マリア皇太后とともに[[クリミア半島|クリミア]]に幽閉されたが、母方の伯母である[[イギリス]][[イギリス君主一覧|国王]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の母[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]王太后が妹一家をクリミアから救出するために奔走し、ジョージ5世が戦艦[[マールバラ_(戦艦)|マールバラ]]をクリミアに差し向け、救出に成功した。その中にはクセニア皇女とその一家、その他のロシア皇族・貴族が含まれていた。オリガとクリコフスキーはロシアに留まることを望み、出国を拒否したが、[[ボルシェヴィキ]]が身近に迫ったことから、[[ノヴォロシースク]]の[[デンマーク]]領事館に脱出。[[トルコ]]の難民キャンプで過ごした後、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の[[ベオグラード]]に移った際に、セルビアのアレクサンダル王太子からベオグラードの住居を提供することを伝えられたが、デンマークに渡った母・マリア皇太后に応召を受けたため辞退した<ref>http://history-gatchina.ru/owners/olga/olga5e.htm</ref>。 |
最初の夫とは夫婦生活は全くなかったため子供はおらず、2番目の夫との間にチホン(1917年 - 1993年)、グーリ(1919年 - 1984年)という2人の息子をもうけた。[[ロシア革命]]が勃発すると、母マリア皇太后とともに[[クリミア半島|クリミア]]に幽閉されたが、母方の伯母である[[イギリス]][[イギリス君主一覧|国王]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の母[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]王太后が妹一家をクリミアから救出するために奔走し、ジョージ5世が戦艦[[マールバラ_(戦艦)|マールバラ]]をクリミアに差し向け、救出に成功した。その中にはクセニア皇女とその一家、その他のロシア皇族・貴族が含まれていた。オリガとクリコフスキーはロシアに留まることを望み、出国を拒否したが、[[ボルシェヴィキ]]が身近に迫ったことから、[[ノヴォロシースク]]の[[デンマーク]]領事館に脱出。[[トルコ]]の難民キャンプで過ごした後、[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]の[[ベオグラード]]に移った際に、セルビアのアレクサンダル王太子からベオグラードの住居を提供することを伝えられたが、デンマークに渡った母・マリア皇太后に応召を受けたため辞退した<ref>http://history-gatchina.ru/owners/olga/olga5e.htm</ref>。 |
2021年6月13日 (日) 10:08時点における版
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オリガ・アレクサンドロヴナ О́льга Алекса́ндровна | |
---|---|
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 | |
オリガ・アレクサンドロヴナ | |
全名 |
О́льга Алекса́ндровна Рома́нова オリガ・アレクサンドロヴナ・ロマノヴァ |
身位 | ロシア大公女 |
出生 |
1882年6月13日 ロシア帝国 サンクトペテルブルク |
死去 |
1960年11月24日(78歳没) カナダ オンタリオ州トロント |
配偶者 | ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルクスキー |
ニコライ・クリコフスキー | |
子女 |
チホン グーリ |
父親 | アレクサンドル3世 |
母親 | マリア・フョードロヴナ |
宗教 | ロシア正教会 |
オリガ・アレクサンドロヴナ(ロシア語: О́льга Алекса́ндровна Рома́нова, ラテン文字転写: Olga Alexandrovna Romanova、1882年6月13日 - 1960年11月24日)は、ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナの第2皇女。ロシア大公女。兄に皇帝ニコライ2世とゲオルギー大公とミハイル大公、姉にクセニア大公女がいる。父親アレクサンドル3世と一番年の近い兄ミハイルには可愛がられて非常に仲が良かったが、母親マリアとは不仲であった。
生涯
不仲だった母マリア皇太后から逃れるために、1901年に最初の夫ピョートル・アレクサンドロヴィチ・オリデンブルクスキー公爵(オルデンブルク公子ペーター)と結婚したが、1916年に離婚し、すぐに愛人で金も資産も無い兵士のニコライ・クリコフスキーと貴賤結婚した。滅亡した王朝だったとはいえ、当時、元皇女が身分の低い男性と結婚するなど考えられない事だった。
ニコライ2世の弟や妹の中では唯一、彼の妻アレクサンドラ皇后に同情的で、一家と親しい付き合いをしていた[1]。
最初の夫とは夫婦生活は全くなかったため子供はおらず、2番目の夫との間にチホン(1917年 - 1993年)、グーリ(1919年 - 1984年)という2人の息子をもうけた。ロシア革命が勃発すると、母マリア皇太后とともにクリミアに幽閉されたが、母方の伯母であるイギリス国王ジョージ5世の母アレクサンドラ王太后が妹一家をクリミアから救出するために奔走し、ジョージ5世が戦艦マールバラをクリミアに差し向け、救出に成功した。その中にはクセニア皇女とその一家、その他のロシア皇族・貴族が含まれていた。オリガとクリコフスキーはロシアに留まることを望み、出国を拒否したが、ボルシェヴィキが身近に迫ったことから、ノヴォロシースクのデンマーク領事館に脱出。トルコの難民キャンプで過ごした後、セルビア王国のベオグラードに移った際に、セルビアのアレクサンダル王太子からベオグラードの住居を提供することを伝えられたが、デンマークに渡った母・マリア皇太后に応召を受けたため辞退した[2]。
その後、イギリスで母マリア皇太后とともにアレクサンドラ王太后に面会した後、母の祖国デンマークの首都コペンハーゲンで母と暮らした。マリア皇太后は2番目の夫のクリコフスキーを嫌い、母親以外に頼る相手のいないオリガをほとんど下女同然に扱った。オリガはそのような母親の扱いに傷付きながらもそれを老齢のせいと受け止め、なるべく母親の心を乱さないように努力した[3]。
1925年、夫とともに出かけたベルリンで出会ったアンナ・アンダーソンに引き合わされた。オリガは母の代理で「皇室の生き残り」と称する人々に何度も面会していたが、この時、オリガはアンナ・アンダーソンをアナスタシア・ニコラエヴナと同一人物であると当初は認めたが、のちに否認している。
母の死後、クリコフスキーとともに郊外の農園に移り住んだ。1948年にカナダのトロント近郊へ夫と子供とともに移住した後、1960年に亡くなった。質素な生活ぶりだったが莫大な財産を残していたという[4]。
脚注
- ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 55. ISBN 978-4042778011
- ^ http://history-gatchina.ru/owners/olga/olga5e.htm
- ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 130
- ^ Phenix, Patricia (1999) Olga Romanov: Russia's Last Grand Duchess. Toronto: Viking/Penguin. ISBN 0-14-028086-3