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「マリヤ・ミロスラフスカヤ」の版間の差分

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貴族出身の[[外交官]]イリヤ・ダニロヴィチ・ミロスラフスキーの末娘に生まれ、1648年アレクセイの花嫁コンテストが開かれると、数百人の花嫁候補の一人として参加した。皇妃選定に当たったのはツァーリの傅育官[[ボリス・モロゾフ]]だったが、彼はマリヤの姉の一人アンナと結婚しており、ツァーリとの絆を深めるため義妹のマリヤを選んだ。この結婚によってモロゾフと父イリヤの宮廷における地位は飛躍的に向上し、殊にツァーリの外舅となったイリヤは大貴族に叙せられて、1668年に没するまで最も権勢を誇る政治家の一人であり続けた。マリヤは13人の子女をもうけたが、後継ぎとなる息子は5人中、三男[[フョードル3世|フョードル]]と五男[[イヴァン5世|イヴァン]]の2人しか成人せず、いずれも病弱だった。娘は8人中6人が成長しており、四女[[ソフィア・アレクセーエヴナ|ソフィヤ]]は女性の身で後に摂政を務めた。子供達は[[人文主義者]]の家庭教師[[シメオン・ポロツキー]]によって高度な教育を受けた。皇妃マリヤは1669年、末娘エウドキヤの出産時に死亡した。ツァーリ・アレクセイは2年後の1671年に[[ナタリヤ・ナルイシキナ]]と再婚した。
貴族出身の[[外交官]]イリヤ・ダニロヴィチ・ミロスラフスキーの末娘に生まれ、1648年アレクセイの花嫁コンテストが開かれると、数百人の花嫁候補の一人として参加した。皇妃選定に当たったのはツァーリの傅育官[[ボリス・モロゾフ]]だったが、彼はマリヤの姉の一人アンナと結婚しており、ツァーリとの絆を深めるため義妹のマリヤを選んだ。この結婚によってモロゾフと父イリヤの宮廷における地位は飛躍的に向上し、殊にツァーリの外舅となったイリヤは大貴族に叙せられて、1668年に没するまで最も権勢を誇る政治家の一人であり続けた。マリヤは13人の子女をもうけたが、後継ぎとなる息子は5人中、三男[[フョードル3世|フョードル]]と五男[[イヴァン5世|イヴァン]]の2人しか成人せず、いずれも病弱だった。娘は8人中6人が成長しており、四女[[ソフィア・アレクセーエヴナ|ソフィヤ]]は女性の身で後に摂政を務めた。子供達は[[人文主義者]]の家庭教師[[シメオン・ポロツキー]]によって高度な教育を受けた。皇妃マリヤは1669年、末娘エウドキヤの出産時に死亡した。ツァーリ・アレクセイは2年後の1671年に[[ナタリヤ・ナルイシキナ]]と再婚した。


マリヤの二人の姉、アンナとイリナ(ドミトリー・ドルゴルーキー公夫人)にはいずれも子供が出来なかった。しかしアンドレイ・ヴァシリエヴィチ・トルストイと結婚した遠縁の女性ソロモニダ・ミハイロヴナ・ミロスラフスカヤによって、一族の血筋は[[:en:Tolstoy (family)|トルストイ家]]に引き継がれた。20世紀に入ると、ソロモニダの子孫の[[嫡流]]にあたる人物が、[[ニコライ2世]]により由緒あるミロスラフスキーの家名を授けられる栄誉に恵まれた。現在その子孫はトルストイ=ミロスラフスキー姓を称している。
マリヤの二人の姉、アンナとイリナ(ドミトリー・ドルゴルーキー公夫人)にはいずれも子供が出来なかった。しかしアンドレイ・ヴァシリエヴィチ・トルストイと結婚した遠縁の女性ソロモニダ・ミハイロヴナ・ミロスラフスカヤによって、一族の血筋は[[:en:Tolstoy (family)|トルストイ家]]に引き継がれた。20世紀に入ると、ソロモニダの子孫の[[嫡流]]にあたる人物が、[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]により由緒あるミロスラフスキーの家名を授けられる栄誉に恵まれた。現在その子孫はトルストイ=ミロスラフスキー姓を称している。


== 子女 ==
== 子女 ==

2021年6月13日 (日) 10:12時点における版

マリヤ・ミロスラフスカヤ
Мария Милославская
ツァリーツァ
在位 1648年 - 1669年

出生 1625年
死去 1669年
配偶者 アレクセイ・ミハイロヴィチ
子女 一覧参照
家名 ミロスラフスキー家
父親 イリヤ・ダニロヴィチ・ミロスラフスキー
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マリヤ・イリイチナ・ミロスラフスカヤМария Ильинична Милославская / Maria Ilyinichna Miloslavskaya, 1625年 - 1669年)はロマノフ朝第2代のモスクワ大公ツァーリであったアレクセイ・ミハイロヴィチの最初の皇妃(ツァリーツァ)。フョードル3世イヴァン5世および摂政ソフィヤの母后。

人物

貴族出身の外交官イリヤ・ダニロヴィチ・ミロスラフスキーの末娘に生まれ、1648年アレクセイの花嫁コンテストが開かれると、数百人の花嫁候補の一人として参加した。皇妃選定に当たったのはツァーリの傅育官ボリス・モロゾフだったが、彼はマリヤの姉の一人アンナと結婚しており、ツァーリとの絆を深めるため義妹のマリヤを選んだ。この結婚によってモロゾフと父イリヤの宮廷における地位は飛躍的に向上し、殊にツァーリの外舅となったイリヤは大貴族に叙せられて、1668年に没するまで最も権勢を誇る政治家の一人であり続けた。マリヤは13人の子女をもうけたが、後継ぎとなる息子は5人中、三男フョードルと五男イヴァンの2人しか成人せず、いずれも病弱だった。娘は8人中6人が成長しており、四女ソフィヤは女性の身で後に摂政を務めた。子供達は人文主義者の家庭教師シメオン・ポロツキーによって高度な教育を受けた。皇妃マリヤは1669年、末娘エウドキヤの出産時に死亡した。ツァーリ・アレクセイは2年後の1671年にナタリヤ・ナルイシキナと再婚した。

マリヤの二人の姉、アンナとイリナ(ドミトリー・ドルゴルーキー公夫人)にはいずれも子供が出来なかった。しかしアンドレイ・ヴァシリエヴィチ・トルストイと結婚した遠縁の女性ソロモニダ・ミハイロヴナ・ミロスラフスカヤによって、一族の血筋はトルストイ家に引き継がれた。20世紀に入ると、ソロモニダの子孫の嫡流にあたる人物が、ニコライ2世により由緒あるミロスラフスキーの家名を授けられる栄誉に恵まれた。現在その子孫はトルストイ=ミロスラフスキー姓を称している。

子女