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「ツァレーヴィチ」の版間の差分

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ツァレーヴィチの称号で呼ばれた最初の人物は[[イヴァン4世]]の長男ドミトリー([[1552年]] - [[1553年]])である。[[ロシア・ツァーリ国|モスクワ・ロシア]]に併合された[[カザン・ハン国]]、[[カシモフ・ハン国]]、[[シビル・ハン国]]の[[ハーン]](ツァーリ)の子孫もこの称号で呼ばれることがあった。
ツァレーヴィチの称号で呼ばれた最初の人物は[[イヴァン4世]]の長男ドミトリー([[1552年]] - [[1553年]])である。[[ロシア・ツァーリ国|モスクワ・ロシア]]に併合された[[カザン・ハン国]]、[[カシモフ・ハン国]]、[[シビル・ハン国]]の[[ハーン]](ツァーリ)の子孫もこの称号で呼ばれることがあった。


[[1721年]]、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が自身の最高称号をインペラートル([[皇帝]])に変更して以後は、使われることがなくなった。さらに[[1797年]]にロシア皇帝[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]が[[帝位継承法 (ロシア帝国)|帝位継承法]]を定めて以後は、皇帝の[[推定相続人]]である最年長の息子は[[ツェサレーヴィチ]]、その弟たちは[[大公]]([[ロシア大公一覧|ヴェリーキー・クニャージ]])と区別されて呼ばれるようになった。それでも、民間でツァーリの称号が使用され続けたのと同様、慣習的にツァレーヴィチの称号も使用され続けた。そのため、ツァレーヴィチと呼ばれうる最後のロシア皇族は[[ニコライ2世]]の長男[[アレクセイ・ニコラエヴィチ|アレクセイ]]ということになる。
[[1721年]]、[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が自身の最高称号をインペラートル([[皇帝]])に変更して以後は、使われることがなくなった。さらに[[1797年]]にロシア皇帝[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]が[[帝位継承法 (ロシア帝国)|帝位継承法]]を定めて以後は、皇帝の[[推定相続人]]である最年長の息子は[[ツェサレーヴィチ]]、その弟たちは[[大公]]([[ロシア大公一覧|ヴェリーキー・クニャージ]])と区別されて呼ばれるようになった。それでも、民間でツァーリの称号が使用され続けたのと同様、慣習的にツァレーヴィチの称号も使用され続けた。そのため、ツァレーヴィチと呼ばれうる最後のロシア皇族は[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の長男[[アレクセイ・ニコラエヴィチ|アレクセイ]]ということになる。


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2021年6月13日 (日) 10:15時点における最新版

ツァレーヴィチロシア語: Царе́вич)は、主にロシアツァーリの息子に与えられる称号。娘の場合はツァレーヴナЦаре́вна)となる。それぞれ「皇子」「皇女」と訳される。西欧関係の文献では「ツァーレヴィチ」と表記されることがあるが、ロシア語のアクセント位置からすれば誤りである。

概要[編集]

ツァレーヴィチの称号で呼ばれた最初の人物はイヴァン4世の長男ドミトリー(1552年 - 1553年)である。モスクワ・ロシアに併合されたカザン・ハン国カシモフ・ハン国シビル・ハン国ハーン(ツァーリ)の子孫もこの称号で呼ばれることがあった。

1721年ピョートル1世が自身の最高称号をインペラートル(皇帝)に変更して以後は、使われることがなくなった。さらに1797年にロシア皇帝パーヴェル1世帝位継承法を定めて以後は、皇帝の推定相続人である最年長の息子はツェサレーヴィチ、その弟たちは大公ヴェリーキー・クニャージ)と区別されて呼ばれるようになった。それでも、民間でツァーリの称号が使用され続けたのと同様、慣習的にツァレーヴィチの称号も使用され続けた。そのため、ツァレーヴィチと呼ばれうる最後のロシア皇族はニコライ2世の長男アレクセイということになる。