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「カール・ミヒャエル・ツー・メクレンブルク」の版間の差分

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メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[ゲオルク (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|ゲオルク]]の次男[[ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク|ゲオルク・アウグスト]]とその妻でロシア大公[[ミハイル・パヴロヴィチ]]の三女である[[エカチェリーナ・ミハイロヴナ]]の間の三男(第4子)として、ロシアのオラニエンバウム(現在の[[ロモノソフ]])で生まれた。母方の祖母[[エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)|エレナ・パヴロヴナ]]大公妃の所有する[[ロシア美術館|ミハイロフスキー宮殿]]で育ち、皇帝[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]の曾孫であるため、広義のロシア帝室の成員と見なされていた。
メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[ゲオルク (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|ゲオルク]]の次男[[ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク|ゲオルク・アウグスト]]とその妻でロシア大公[[ミハイル・パヴロヴィチ]]の三女である[[エカチェリーナ・ミハイロヴナ]]の間の三男(第4子)として、ロシアのオラニエンバウム(現在の[[ロモノソフ]])で生まれた。母方の祖母[[エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)|エレナ・パヴロヴナ]]大公妃の所有する[[ロシア美術館|ミハイロフスキー宮殿]]で育ち、皇帝[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]の曾孫であるため、広義のロシア帝室の成員と見なされていた。


ドイツの[[ストラスブール大学|シュトラスブルク大学]]で[[Ph.D.|人文学博士]]号を取得した後、[[ロシア陸軍]]に入隊し、最終的には陸軍中将まで昇進した。生涯独身を通したが、1909年に兄[[ゲオルク・アレクサンダー・ツー・メクレンブルク (1859-1909)|ゲオルク・アレクサンダー]]の4人の遺児の後見人となった。また、1894年に母から相続したミハイロフスキー宮殿を、ロシア皇帝[[ニコライ2世]]に売却している。[[第一次世界大戦]]が勃発する直前の1914年6月20日、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[アドルフ・フリードリヒ6世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|アドルフ・フリードリヒ6世]]に対して、自身の大公位継承権を放棄すると通知し、大戦勃発後はロシアに[[帰化]]した。1917年3月の[[2月革命 (1917年)|2月革命]]によって帝政が崩壊すると、拘束されて[[ドゥーマ|国会]]への出頭を命じられ、[[コーカサス|カフカース]]地方に逃亡した。
ドイツの[[ストラスブール大学|シュトラスブルク大学]]で[[Ph.D.|人文学博士]]号を取得した後、[[ロシア陸軍]]に入隊し、最終的には陸軍中将まで昇進した。生涯独身を通したが、1909年に兄[[ゲオルク・アレクサンダー・ツー・メクレンブルク (1859-1909)|ゲオルク・アレクサンダー]]の4人の遺児の後見人となった。また、1894年に母から相続したミハイロフスキー宮殿を、ロシア皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]に売却している。[[第一次世界大戦]]が勃発する直前の1914年6月20日、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[アドルフ・フリードリヒ6世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|アドルフ・フリードリヒ6世]]に対して、自身の大公位継承権を放棄すると通知し、大戦勃発後はロシアに[[帰化]]した。1917年3月の[[2月革命 (1917年)|2月革命]]によって帝政が崩壊すると、拘束されて[[ドゥーマ|国会]]への出頭を命じられ、[[コーカサス|カフカース]]地方に逃亡した。


1918年2月、大公アドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げると、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国は君主が不在となった。摂政となった[[メクレンブルク=シュヴェリーン]]大公[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]は、唯一の継承権者であるミハイルに大公位に就くよう促し、シュヴェリーンに併合されることを恐れるシュトレーリッツの臣民たちも、ミハイルに大公位就任を求める請願書を送った。ミハイルはフリードリヒ・フランツ4世に対し、改めて継承権放棄の意思を示した書簡を送ったが、この手紙が届いたのは1919年1月になってからだった。このためシュトレーリッツ大公国では大公位継承問題を解決できないまま、1918年11月の[[ドイツ革命]]を迎えた。
1918年2月、大公アドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げると、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国は君主が不在となった。摂政となった[[メクレンブルク=シュヴェリーン]]大公[[フリードリヒ・フランツ4世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ4世]]は、唯一の継承権者であるミハイルに大公位に就くよう促し、シュヴェリーンに併合されることを恐れるシュトレーリッツの臣民たちも、ミハイルに大公位就任を求める請願書を送った。ミハイルはフリードリヒ・フランツ4世に対し、改めて継承権放棄の意思を示した書簡を送ったが、この手紙が届いたのは1919年1月になってからだった。このためシュトレーリッツ大公国では大公位継承問題を解決できないまま、1918年11月の[[ドイツ革命]]を迎えた。

2021年6月13日 (日) 10:18時点における最新版

カール・ミヒャエル
Karl Michael
メクレンブルク=シュトレーリッツ家家長
メクレンブルク公カール・ミヒャエル
在位 1918年 - 1934年

全名
称号 メクレンブルク公
出生 (1863-06-17) 1863年6月17日
ロシア帝国オラニエンバウム
死去 (1934-12-06) 1934年12月6日(71歳没)
ドイツの旗 ドイツ国メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州レンプリン英語版
埋葬 ドイツの旗 ドイツ国メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州レンプリン英語版
子女 (養子)ゲオルク
家名 メクレンブルク家
父親 ゲオルク・アウグスト
母親 エカチェリーナ・ミハイロヴナ
宗教 キリスト教ルーテル教会
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カール・ミヒャエル・ヘルツォーク・ツー・メクレンブルクドイツ語: Karl Michael Herzog zu Mecklenburg, 1863年6月17日ユリウス暦6月5日] - 1934年12月6日)は、ドイツメクレンブルク=シュトレーリッツ大公家の一員で、ロシアの貴族、軍人。メクレンブルク=シュトレーリッツ大公家家長(1918年 - 1934年)。ロシア語名はミハイル・ゲオルギエヴィチ・メクレンブルク=ストレリツキーМихаил Георгиевич Мекленбург-Стрелицкий)。

生涯[編集]

メクレンブルク=シュトレーリッツ大公ゲオルクの次男ゲオルク・アウグストとその妻でロシア大公ミハイル・パヴロヴィチの三女であるエカチェリーナ・ミハイロヴナの間の三男(第4子)として、ロシアのオラニエンバウム(現在のロモノソフ)で生まれた。母方の祖母エレナ・パヴロヴナ大公妃の所有するミハイロフスキー宮殿で育ち、皇帝パーヴェル1世の曾孫であるため、広義のロシア帝室の成員と見なされていた。

ドイツのシュトラスブルク大学人文学博士号を取得した後、ロシア陸軍に入隊し、最終的には陸軍中将まで昇進した。生涯独身を通したが、1909年に兄ゲオルク・アレクサンダーの4人の遺児の後見人となった。また、1894年に母から相続したミハイロフスキー宮殿を、ロシア皇帝ニコライ2世に売却している。第一次世界大戦が勃発する直前の1914年6月20日、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公アドルフ・フリードリヒ6世に対して、自身の大公位継承権を放棄すると通知し、大戦勃発後はロシアに帰化した。1917年3月の2月革命によって帝政が崩壊すると、拘束されて国会への出頭を命じられ、カフカース地方に逃亡した。

1918年2月、大公アドルフ・フリードリヒ6世が自殺を遂げると、メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国は君主が不在となった。摂政となったメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世は、唯一の継承権者であるミハイルに大公位に就くよう促し、シュヴェリーンに併合されることを恐れるシュトレーリッツの臣民たちも、ミハイルに大公位就任を求める請願書を送った。ミハイルはフリードリヒ・フランツ4世に対し、改めて継承権放棄の意思を示した書簡を送ったが、この手紙が届いたのは1919年1月になってからだった。このためシュトレーリッツ大公国では大公位継承問題を解決できないまま、1918年11月のドイツ革命を迎えた。

ミハイルは1919年に家族とともにロシアを出国し、最初はフランスに、次いでデンマークに移った。デンマークでは亡命ロシア人将校たちの相互扶助協会の会長を務めていた。1921年、大公位の請求権放棄と引き換えに、メクレンブルク=シュトレーリッツ自由州政府から500万マルクの補償金を受け取った。1930年4月に所領のあるメクレンブルクのレンプリンドイツ語版の城に移った。

1928年9月11日、大公位継承権を認められていなかった甥のゲオルギー・カルロフ伯爵を正式に養子に迎え、この養子縁組は10月11日にマルヒンドイツ語版の地方裁判所に認可された。以後、ゲオルク(ゲオルギー)は「メクレンブルク公(Herzog zu Mecklenburg)」を名乗るようになった。1934年にレンプリン城で死去し、大公家の家督は甥で養子のゲオルクが継いだ。

参考文献[編集]

  • Erstling, Frank; Frank Saß, Eberhard Schulze, Harald Witzke (April 2001). “Das Fürstenhaus von Mecklenburg-Strelitz” (Deutsch). Mecklenburg-Strelitz, Beiträge zur Geschichte einer Region. Friedland: Steffen. ISBN 3980753204 
  • Huberty, Michel; Alain Giraud, F. et B. Magdelaine. L'Allemagne Dynastique, Tome VI : Bade-Mecklembourg. ISBN 9782901138068 
カール・ミヒャエルの墓
先代
アドルフ・フリードリヒ6世
メクレンブルク=シュトレーリッツ家長
1918年 - 1934年
次代
ゲオルク