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「マリア・ボチカリョーワ」の版間の差分

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1889年、マリアはノヴゴロド県の農民の家庭に生まれた。15歳でアファナーシイ・ボチカリョーフと結婚するために家を出てシベリアの[[トムスク]]に移り、そこで労働者として働いた。夫がマリアに手を挙げるようになると、彼女は夫と別れ、地元でヤーコフ(あるいはヤンケル)・ブークと呼ばれる男と関係を持つ。彼は肉屋であり、ともに働くようになった。しかし1912年5月、ブークは窃盗犯として逮捕され、[[ヤクーツク]]送りになった。ボチカリョーワは彼を追いかけ、主に徒歩で流刑地まで向い、そこで再び肉屋をもった。1913年にブークは盗みで再び捕まり、タイガのほとりにあるアムガ居住地に送られた。ボチカリョーワはやはり彼を追いかけている。ブークは酒量が増え、すぐに粗暴になった。
1889年、マリアはノヴゴロド県の農民の家庭に生まれた。15歳でアファナーシイ・ボチカリョーフと結婚するために家を出てシベリアの[[トムスク]]に移り、そこで労働者として働いた。夫がマリアに手を挙げるようになると、彼女は夫と別れ、地元でヤーコフ(あるいはヤンケル)・ブークと呼ばれる男と関係を持つ。彼は肉屋であり、ともに働くようになった。しかし1912年5月、ブークは窃盗犯として逮捕され、[[ヤクーツク]]送りになった。ボチカリョーワは彼を追いかけ、主に徒歩で流刑地まで向い、そこで再び肉屋をもった。1913年にブークは盗みで再び捕まり、タイガのほとりにあるアムガ居住地に送られた。ボチカリョーワはやはり彼を追いかけている。ブークは酒量が増え、すぐに粗暴になった。


1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、ボチカリョーワはブークと別れ、トムスクへ戻った。11月に、彼女はロシア帝国軍の第25トムスク予備隊へと加入することができた。[[ニコライ2世]]による彼女個人への許可があった。大多数の男たちは彼女をからかい、性的な嫌がらせをした。それがやむのは、彼女が戦場でその気概を証明したときからだった。翌年、ボチカリョーワは二度負傷し、その果敢さゆえに三度の受勲をした。1917年5月に皇帝が退位してのち、戦争相であったケレンスキーの命により全成員が女性である部隊の創設に任じられた。これはロシアではじめて組織される婦人部隊であった。ボチカリョーワによる第一次婦人決死隊は最初2000名ほどの女性志願者を集めたが、司令官が厳格な規律を守らせると、隊には献身的な300名ほどしか残らなかった。
1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、ボチカリョーワはブークと別れ、トムスクへ戻った。11月に、彼女はロシア帝国軍の第25トムスク予備隊へと加入することができた。[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]による彼女個人への許可があった。大多数の男たちは彼女をからかい、性的な嫌がらせをした。それがやむのは、彼女が戦場でその気概を証明したときからだった。翌年、ボチカリョーワは二度負傷し、その果敢さゆえに三度の受勲をした。1917年5月に皇帝が退位してのち、戦争相であったケレンスキーの命により全成員が女性である部隊の創設に任じられた。これはロシアではじめて組織される婦人部隊であった。ボチカリョーワによる第一次婦人決死隊は最初2000名ほどの女性志願者を集めたが、司令官が厳格な規律を守らせると、隊には献身的な300名ほどしか残らなかった。


厳しい訓練を一ヶ月行い、ボチカリョーワとその隊は6月の攻勢に加わるためにロシア西部戦線へと送られた。隊は[[スマルホニ]]市外での大規模な戦闘に関わった。婦人隊は戦場では上首尾をみせたが、男性兵士の大部分がすでに長期にわたる戦況に士気をくじかれており、戦闘を続けることはほぼ不可能であった。ボチカリョーワ自身も戦いで負傷しており、回復のためペトログラードへ帰還した。
厳しい訓練を一ヶ月行い、ボチカリョーワとその隊は6月の攻勢に加わるためにロシア西部戦線へと送られた。隊は[[スマルホニ]]市外での大規模な戦闘に関わった。婦人隊は戦場では上首尾をみせたが、男性兵士の大部分がすでに長期にわたる戦況に士気をくじかれており、戦闘を続けることはほぼ不可能であった。ボチカリョーワ自身も戦いで負傷しており、回復のためペトログラードへ帰還した。

2021年6月13日 (日) 10:18時点における版

マリア・レオンチエヴナ・ボチカリョーワ(ロシア語: Мария Леонтьевна Бочкарева 旧姓:フロルコワ 1889年-1920年)とは、第一次世界大戦を戦ったロシアの女性軍人。ロシアで初めて「婦人決死隊Women's Battalion of Death」を組織した。あだ名は「ヤーシカ」。

略歴

1889年、マリアはノヴゴロド県の農民の家庭に生まれた。15歳でアファナーシイ・ボチカリョーフと結婚するために家を出てシベリアのトムスクに移り、そこで労働者として働いた。夫がマリアに手を挙げるようになると、彼女は夫と別れ、地元でヤーコフ(あるいはヤンケル)・ブークと呼ばれる男と関係を持つ。彼は肉屋であり、ともに働くようになった。しかし1912年5月、ブークは窃盗犯として逮捕され、ヤクーツク送りになった。ボチカリョーワは彼を追いかけ、主に徒歩で流刑地まで向い、そこで再び肉屋をもった。1913年にブークは盗みで再び捕まり、タイガのほとりにあるアムガ居住地に送られた。ボチカリョーワはやはり彼を追いかけている。ブークは酒量が増え、すぐに粗暴になった。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ボチカリョーワはブークと別れ、トムスクへ戻った。11月に、彼女はロシア帝国軍の第25トムスク予備隊へと加入することができた。ニコライ2世による彼女個人への許可があった。大多数の男たちは彼女をからかい、性的な嫌がらせをした。それがやむのは、彼女が戦場でその気概を証明したときからだった。翌年、ボチカリョーワは二度負傷し、その果敢さゆえに三度の受勲をした。1917年5月に皇帝が退位してのち、戦争相であったケレンスキーの命により全成員が女性である部隊の創設に任じられた。これはロシアではじめて組織される婦人部隊であった。ボチカリョーワによる第一次婦人決死隊は最初2000名ほどの女性志願者を集めたが、司令官が厳格な規律を守らせると、隊には献身的な300名ほどしか残らなかった。

厳しい訓練を一ヶ月行い、ボチカリョーワとその隊は6月の攻勢に加わるためにロシア西部戦線へと送られた。隊はスマルホニ市外での大規模な戦闘に関わった。婦人隊は戦場では上首尾をみせたが、男性兵士の大部分がすでに長期にわたる戦況に士気をくじかれており、戦闘を続けることはほぼ不可能であった。ボチカリョーワ自身も戦いで負傷しており、回復のためペトログラードへ帰還した。

ロシアでは1917年の春から夏にかけて他の婦人隊も組織されたがボチカリョーワは外形的にしか関わらなかった。彼女の部隊はボリシェヴィキの10月革命で先頭にたったが、冬宮殿の防衛には参加していない(こちらには別の婦人隊である第一次ペトログラード婦人部隊が参加した)。前線に立ち続ける男性隊員の反感が強まったために、婦人部隊は解散することになる。ペトログラードへ戻ったボチカリョーワはそこでボリシェヴィキに拘束されるが、その後すぐに釈放された。彼女はトムスクにいる家族と再会する許可をえていたが、1918年のはじめには再びペトログラードへと発った。そして彼女の主張によれば、コーカサスで白軍を指揮していたラーヴル・コルニーロフ将軍から連絡をとるようにという電信を受け取った。コルニーロフ将軍の本部を離れてのち、ボチカリョーワは再びボリシェヴィキに拘束された。白軍との人脈を調べた後は、処刑されることになっていた。しかし彼女は、1915年に帝国軍で彼女に仕えていたある兵士によって救出される。彼がボリシェヴィキに処刑の延期を承諾させたのである。ボチカリョーワは海外へのパスポートを与えられ、祖国を離れることを許された。彼女は汽船でアメリカへと出発するためにまずウラジオストクへと向った。1918年4月のことである。

サンフランシスコへ到着し、その後ニューヨーク、ワシントンD.C.を回った。社交界での名士でもあり裕福だったフロレンス・ハリマンの支援を受けてのことである。大統領へロシアへの介入を嘆願していた最中、ボチカリョーワは1918年6月10日にウィルソン大統領と面会する機会が与えられた。ウィルソンは彼女の情熱的な訴えに明らかに心を動かされ、目に涙をためてできる限りのことをすると約束した[1]

ニューヨークにいる間、彼女は回想録を執筆している。その「ヤーシカ:農夫としての我が人生、追放と兵役」はロシアの亡命ジャーナリストであるイサーク・ドン・レヴァインに書き取らせたものである。アメリカを離れると、マリアはイギリスに行き、ジョージ5世と面会した。イギリス戦争省は彼女へロシアへ戻るための資金を与えた。1918年8月にアルハンゲリスクへ着いた彼女は、別の部隊をつくろうとしたが、失敗に終わっている。

1919年4月、トムスクに戻り、白軍の提督アレクサンドル・コルチャークのもとで婦人医務分隊?を組織しようとした。しかしそれを成し遂げる前に、彼女は三度ボリシェヴィキに捕まった。クラスノアルスクへ移送され、4ヶ月の取調べの後、死刑が言い渡された。人民の敵であるという罪状である。1920年5月16日、チェーカーにより銃殺刑に処された。

1992年1月9日、「政治的抑圧の犠牲者の名誉回復法」に基づき死刑判決が取り消され、ボチカリョーワは名誉回復された。

脚注

  1. ^ Jerome Landfield to Secretary Breckenridge Long, July 13, 1918. Department of State communique, Long Papers, box 38, Manuscript Division, Library of Congress, Washington, DC.

参考文献

  • Botchkareva, Maria. Yashka: My Life as Peasant, Exile, and Soldier. As told to Isaac Don Levine (New York: Frederick A. Stokes, 1919)
  • Stoff, Laurie. They Fought for the Motherland: Russia's Women Soldiers in World War I and the Revolution. (Lawrence: University Press of Kansas, 2006)