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2歳で[[イタリア]]に移住し、3歳8カ月で[[パリ]]の[[シャイヨ宮|トロカデロ]]に於いてオーケストラを指揮して[[ジュール・マスネ]]を驚嘆させた。
2歳で[[イタリア]]に移住し、3歳8カ月で[[パリ]]の[[シャイヨ宮|トロカデロ]]に於いてオーケストラを指揮して[[ジュール・マスネ]]を驚嘆させた。


4歳で[[フォリー・ベルジェール]]のオーケストラ、6歳で[[ローマ歌劇場|コスタンツィ劇場]]のコンサートを指揮。7歳の時には[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]の招きで[[サンクトペテルブルク]]に演奏旅行に行って聖スタニスラウス勲章を授与されたり、[[教皇|ローマ教皇]][[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]に謁見したりしている。
4歳で[[フォリー・ベルジェール]]のオーケストラ、6歳で[[ローマ歌劇場|コスタンツィ劇場]]のコンサートを指揮。7歳の時には[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]の招きで[[サンクトペテルブルク]]に演奏旅行に行って聖スタニスラウス勲章を授与されたり、[[教皇|ローマ教皇]][[ピウス10世 (ローマ教皇)|ピウス10世]]に謁見したりしている。


1914年には[[ロンドン]]のロイヤル・アルバート・ホールで[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ王妃]]列席の下[[イギリス]]・[[デビュー]]を飾り、1917年にはローマ教皇[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]に謁見した。
1914年には[[ロンドン]]のロイヤル・アルバート・ホールで[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ王妃]]列席の下[[イギリス]]・[[デビュー]]を飾り、1917年にはローマ教皇[[ベネディクトゥス15世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス15世]]に謁見した。

2021年6月13日 (日) 10:22時点における版

ウィリー・フェレロ(1913年)

ウィリー・フェレロ(Willy Ferrero, 1906年3月21日 - 1954年3月24日)は、アメリカ合衆国出身で、主にヨーロッパロシアで活躍した指揮者[1][2]

メイン州ポートランドイタリア人の両親の元に生まれる。

2歳でイタリアに移住し、3歳8カ月でパリトロカデロに於いてオーケストラを指揮してジュール・マスネを驚嘆させた。

4歳でフォリー・ベルジェールのオーケストラ、6歳でコスタンツィ劇場のコンサートを指揮。7歳の時にはロシア皇帝ニコライ2世の招きでサンクトペテルブルクに演奏旅行に行って聖スタニスラウス勲章を授与されたり、ローマ教皇ピウス10世に謁見したりしている。

1914年にはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでアレクサンドラ王妃列席の下イギリスデビューを飾り、1917年にはローマ教皇ベネディクトゥス15世に謁見した。

その後ウィーン音楽院でマックス・スプリンガーに師事。1924年に卒業後はミラノローマを中心に音楽活動を続け、指揮者として世界各地のオーケストラに客演する傍らで、ルキノ・ヴィスコンティの『揺れる大地』の映画音楽の作曲やヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』の映画音楽の指揮[3]オーソン・ウェルズの『オテロ』の音楽ディレクター[4]などを務めた。

ローマにて死去。

脚注