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== 人生 ==
== 人生 ==
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[[パリ]]で料理の腕を磨いたハリトーノフは[[2月革命 (1917年)|二月革命]]後に[[ロマノフ家]]の調理場の給仕長に就任した<ref name="Москва">{{Cite web|url=http://3rm.info/print:page,1,10701-carskie-slugi-evgenij-lukashevskij.html|title=Царские слуги. Евгений Лукашевский|publisher=Москва - Третий Рим|language=ロシア語|accessdate=2014年3月25日}}</ref>。ハリトーノフの妻と娘は[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]一家とともに[[十月革命]]後に[[トボリスク]]に監禁された彼に同行したが、[[1918年]]5月に[[エカテリンブルク]]へ移送された時は同行が許されなかった<ref>{{Cite book|author=[[グレッグ・キング]]|title=The Fate of the Romanovs|publisher=John Wiley and Sons|page=65|language=英語|isbn=0-471-20768-3}}</ref>。ハリトーノフは監禁生活中に若い皇女達にパンの作り方を教えた<ref name="Москва" />。エカテリンブルクの[[イパチェフ館]]に滞在する従者の数は次第に減っていった。2人が投獄され、6月には侍医の[[エフゲニー・ボトキン]]、[[メイド]]の[[アンナ・デミドヴァ]]、[[フットマン]]の[[アレクセイ・トルップ]]、皿洗いの少年[[レオニード・セドネフ]]しかいなくなった<ref>{{Cite book|author=[[アンソニー・サマーズ]](著)、[[トム・マンゴールド]](著)、[[高橋正]](訳)|title=ロマノフ家の最期|publisher=[[中央公論社]]|page=36|isbn=978-4122014473}}</ref>。


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2021年6月13日 (日) 10:23時点における最新版

イヴァン・ハリトーノフ
イヴァン・ハリトーノフ
生誕 1870年6月14日
ロシア帝国
死没 1918年7月17日
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
エカテリンブルク
職業 料理人
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イヴァン・ミハイロヴィチ・ハリトーノフロシア語: Иван Михайлович Харитонов, ラテン文字転写: Ivan Mikhailovich Kharitonov1870年6月14日 - 1918年7月17日)は、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世一家の料理人だった。

元皇帝一家とともにエカテリンブルクイパチェフ館に監禁され、1918年7月17日に彼らとともに殺害された。1981年在外ロシア正教会によってソビエト政権による圧政の犠牲者として列聖された(新致命者)。

人生[編集]

パリで料理の腕を磨いたハリトーノフは二月革命後にロマノフ家の調理場の給仕長に就任した[1]。ハリトーノフの妻と娘はニコライ2世一家とともに十月革命後にトボリスクに監禁された彼に同行したが、1918年5月にエカテリンブルクへ移送された時は同行が許されなかった[2]。ハリトーノフは監禁生活中に若い皇女達にパンの作り方を教えた[1]。エカテリンブルクのイパチェフ館に滞在する従者の数は次第に減っていった。2人が投獄され、6月には侍医のエフゲニー・ボトキンメイドアンナ・デミドヴァフットマンアレクセイ・トルップ、皿洗いの少年レオニード・セドネフしかいなくなった[3]

7月17日ヤコフ・ユロフスキー率いる銃殺隊によってニコライ2世と夫人のアレクサンドラ、夫婦の5人の子供(オリガタチアナマリアアナスタシアアレクセイ)、他の3人の従者とともに殺害された。ハリトーノフは銃殺隊による最初の一斉射撃で発射された弾丸が当たり、死亡した[1]。ユロフスキーによると、「座るようにして死んでいった」という[4]。48歳没。

死後の再評価[編集]

7月17日の他の殺人被害者と同じく1981年在外ロシア正教会によって列聖された[5]

ハリトーノフの孫、バレンティン・ハリトーノフは1998年7月17日にサンクトペテルブルクペトル・パウェル大聖堂で執り行われた80年前にイパチェフ館で亡くなったニコライ2世一家とその従者のための葬儀に出席した[6]

2009年10月16日ロシア連邦検察庁ロシア語版はハリトーノフら従者を含めたボリシェヴィキによる赤色テロの犠牲者52名の名誉の回復を発表した[7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Царские слуги. Евгений Лукашевский” (ロシア語). Москва - Третий Рим. 2014年3月25日閲覧。
  2. ^ グレッグ・キング (英語). The Fate of the Romanovs. John Wiley and Sons. p. 65. ISBN 0-471-20768-3 
  3. ^ アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳). ロマノフ家の最期. 中央公論社. p. 36. ISBN 978-4122014473 
  4. ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 86. ISBN 978-4042778011 
  5. ^ グレッグ・キング (英語). The Fate of the Romanovs. John Wiley and Sons. p. 65、495 
  6. ^ 17 July 1998: The funeral of Tsar Nicholas II” (英語). Romanovfundforrussia.org. 2006年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月24日閲覧。
  7. ^ Генеральная прокуратура РФ удовлетворила заявление Главы Российского Императорского Дома о реабилитации репрессированных верных служителей Царской Семьи и других Членов Дома Романовых” (ロシア語). Официальный сайт Российского Императорского Дома. 2014年3月25日閲覧。