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「ケレンスキー攻勢」の版間の差分

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[[ロシア臨時政府]]の陸海軍相であった[[アレクサンドル・ケレンスキー]]はイギリスのダータネルス海峡の領有という口車に乗せられ[[アレクセイ・ブルシーロフ]]将軍に攻勢を命じた。[[2月革命]]のため、民衆と戦闘能力を失った軍は平和を強く求めており、この攻勢はタイミングが悪いものであった。
[[ロシア臨時政府]]の陸海軍相であった[[アレクサンドル・ケレンスキー]]はイギリスのダータネルス海峡の領有という口車に乗せられ[[アレクセイ・ブルシーロフ]]将軍に攻勢を命じた。[[2月革命]]のため、民衆と戦闘能力を失った軍は平和を強く求めており、この攻勢はタイミングが悪いものであった。


[[ニコライ2世]]が退位した時、[[ロシア帝国軍]]の規律は危機的な状況に達した。[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]の[[ソビエト]]による最初の命令は兵士委員会の命令を優先させることであり、この命令は[[将校]]の力を著しく弱体化させた。[[ボリシェヴィキ]]を含む革命勢力にとって死刑の廃止は敗北主義を達成させるための重要なものであったが、軍の力を弱体化させる事をさらに促進させた。ケレンスキーはこの革命勢力の活動を大目に見ている部分があった。これらの事実よりも重要な事として、高級司令部がこれらの状況に適切な処置を行わなった事が挙げられる。軍の民主化に伴い、効率的に戦闘を行う事に失敗し、前線の将校が直面している問題に速やかに対処できなかった。命令を無視する者も現れ始めたので、もはや殆ど誰も[[スタフカ#第一次世界大戦時のロシア・スタフカ|スタフカ]]が軍をコントロールすることできないと考えた<ref>Hingston, Thomas, 'Officers and the Revolution: February - October 1917' (Dissertation at Queen Mary History Department, 2017).</ref>。
[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]が退位した時、[[ロシア帝国軍]]の規律は危機的な状況に達した。[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]の[[ソビエト]]による最初の命令は兵士委員会の命令を優先させることであり、この命令は[[将校]]の力を著しく弱体化させた。[[ボリシェヴィキ]]を含む革命勢力にとって死刑の廃止は敗北主義を達成させるための重要なものであったが、軍の力を弱体化させる事をさらに促進させた。ケレンスキーはこの革命勢力の活動を大目に見ている部分があった。これらの事実よりも重要な事として、高級司令部がこれらの状況に適切な処置を行わなった事が挙げられる。軍の民主化に伴い、効率的に戦闘を行う事に失敗し、前線の将校が直面している問題に速やかに対処できなかった。命令を無視する者も現れ始めたので、もはや殆ど誰も[[スタフカ#第一次世界大戦時のロシア・スタフカ|スタフカ]]が軍をコントロールすることできないと考えた<ref>Hingston, Thomas, 'Officers and the Revolution: February - October 1917' (Dissertation at Queen Mary History Department, 2017).</ref>。


前線で暴動が起きる光景はありふれたものとなり、将校の兵士に対する[[嫌がらせ|ハラスメント]]はより残虐なものとなった。第一次世界大戦全体での勝利のために、暫定政権は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]としての義務に応えようとしたため、兵士はより戦意を喪失した。
前線で暴動が起きる光景はありふれたものとなり、将校の兵士に対する[[嫌がらせ|ハラスメント]]はより残虐なものとなった。第一次世界大戦全体での勝利のために、暫定政権は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]としての義務に応えようとしたため、兵士はより戦意を喪失した。

2021年6月13日 (日) 10:26時点における版

ケレンスキー攻勢
東部戦線(第一次世界大戦)中

1917年の東部戦線
1917年7月1日から7月19日
場所ガリツィア
結果 中央同盟国の勝利
衝突した勢力
ドイツ帝国の旗 ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
戦力
ドイツ帝国の旗/オーストリア=ハンガリー帝国の旗南方軍
オーストリア=ハンガリー帝国の旗第7軍
オーストリア=ハンガリー帝国の旗第3軍
ロシア帝国の旗ロシア第7軍
ロシア帝国の旗ロシア第8軍
ロシア帝国の旗ロシア第11軍
被害者数
不明 60000
東部戦線 (第一次世界大戦)

ケレンスキー攻勢(ロシア語: Наступление Керенского)は7月攻勢 (ロシア語: Июльское наступление)とも呼ばれる、第一次世界大戦におけるロシア帝国の最後の攻勢である。この攻勢は1917年7月にルーマニアを援護するため行われた。

背景

ロシア臨時政府の陸海軍相であったアレクサンドル・ケレンスキーはイギリスのダータネルス海峡の領有という口車に乗せられアレクセイ・ブルシーロフ将軍に攻勢を命じた。2月革命のため、民衆と戦闘能力を失った軍は平和を強く求めており、この攻勢はタイミングが悪いものであった。

ニコライ2世が退位した時、ロシア帝国軍の規律は危機的な状況に達した。ペトログラードソビエトによる最初の命令は兵士委員会の命令を優先させることであり、この命令は将校の力を著しく弱体化させた。ボリシェヴィキを含む革命勢力にとって死刑の廃止は敗北主義を達成させるための重要なものであったが、軍の力を弱体化させる事をさらに促進させた。ケレンスキーはこの革命勢力の活動を大目に見ている部分があった。これらの事実よりも重要な事として、高級司令部がこれらの状況に適切な処置を行わなった事が挙げられる。軍の民主化に伴い、効率的に戦闘を行う事に失敗し、前線の将校が直面している問題に速やかに対処できなかった。命令を無視する者も現れ始めたので、もはや殆ど誰もスタフカが軍をコントロールすることできないと考えた[1]

前線で暴動が起きる光景はありふれたものとなり、将校の兵士に対するハラスメントはより残虐なものとなった。第一次世界大戦全体での勝利のために、暫定政権は連合国としての義務に応えようとしたため、兵士はより戦意を喪失した。

しかしケレンスキーはロシアの勝利によって自身の支持を得て、兵士の士気を取り戻す事に希望を見出したため、臨時政府を強化し、「世界で最も民主的な軍」の強さを宣伝した。ブルシーロフはケレンスキーのこれらの行動を彼の唯一の希望であると考えたため、軍の崩壊はもはや避けられないと予見していた。

攻勢

1917年7月1日、ロシア軍は攻勢を開始し、ブルシーロフ攻勢と全く同じ戦術でリヴィウまで戦線を押し返そうとした。攻勢に参加したロシア第11軍、ロシア第7軍、ロシア第8軍はドイツ南方軍とオーストリア第7軍、オーストリア第3軍を対峙した。

強力な砲撃の結果、当初はロシア軍の作戦は成功し、敵はもはやロシアの戦線から消えてしまった様であった。オーストリア軍は砲撃に抵抗する術がなく、オーストリア第3軍を中心にロシア軍の進軍を許してしまった。しかしホフマン率いるドイツ軍はブルシーロフ攻勢での大敗北を徹底的に研究しており、ロシアの攻撃に対して頑強に抵抗することができたため、ロシア軍は多大な損害を被ることになった。

ロシア軍の損害が増えるにつれ、歩兵の士気は低下した。作戦の成功の要因はもっぱら騎兵や、大砲ラーヴル・コルニーロフが創設した特殊な大隊によるものであった。他の大半の歩兵部隊は命令に従う事を拒否した。兵士の委員会は将校に従うかどうかを議論していた。師団が戦いを完全に拒否した時、あらゆる命令は師団の委員会の議論なしでは従わず、たとえ従ったとしてもその時には既にその命令を実行するには遅すぎた。

7月16日までにロシアの前進は完全に失敗していた。7月19日にドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍は反撃を開始し、ほとんど抵抗もなく、ガリツィアウクライナズブルチ川まで進軍していた。ロシアの前線は7月20日から23日にかけて崩壊し、ロシア軍は240km撤退した。ドイツ軍は補給が満たされている限り、いくらでもロシアを進軍できる状態だった[2]

結果

ロシア臨時政府は軍事的な破滅を招いたため、戦力の大半を失い、ボリシェビキによるクーデターの可能性が現実味を帯び始めた。この攻勢はもはやロシア軍は戦意を完全に失っている事を証明してしまった。ロシアの将軍は自分の配下に兵がどれだけいて、彼らが命令した事を実行しているかどうかすら、誰も把握できなくなった。

この攻勢はボリシェビキの七月蜂起の開始のきっかけとなり、ルーマニアにも大きな影響を与えた。ルーマニアのロシア軍は当初オーストリア=ハンガリー軍の戦線をヴランチャ県で破り、ケレンスキー攻勢を助けたが、その進軍も止まってしまった。

1917年の間、ドイツ軍とロシア軍の間では更なる戦闘が続けられた。1917年9月1日にドイツ軍はリガを攻撃して占領した。リガを防衛していたロシアの兵士は戦闘を拒否し、ドイツの進軍から逃亡した。

プロシロフは責任をとらせれ、コロニーロフが後任についた。しかし、これから講和、内戦、大粛清、再び世界大戦とロシアの歴史上最も悲惨な惨劇が起こることになる。

参考文献

脚注

  1. ^ Hingston, Thomas, 'Officers and the Revolution: February - October 1917' (Dissertation at Queen Mary History Department, 2017).
  2. ^ Livesy, The Viking Atlas of World War I (1994) p.134