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「タウケ」の版間の差分

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タウケは[[テュルキスタン|ヤシ]]に居住し、近郊のキュルトベの丘で有力な[[ベグ|ビー]](部族の指導者)と協議して国内を統治した。[[17世紀]]末から[[ロシア帝国]]に頻繁に使者を派遣し、ロシアとの外交関係の構築に成功した<ref name="jiten"/>。[[1687年]]、[[1691年]]にロシアに通商を求める使節を派遣し、[[1694年]]、[[1697年]]には貿易の継続を要請した<ref>佐口透『ロシアとアジア草原』(ユーラシア文化史選書, 吉川弘文館, 1966年)、77頁</ref>。
タウケは[[テュルキスタン|ヤシ]]に居住し、近郊のキュルトベの丘で有力な[[ベグ|ビー]](部族の指導者)と協議して国内を統治した。[[17世紀]]末から[[ロシア帝国]]に頻繁に使者を派遣し、ロシアとの外交関係の構築に成功した<ref name="jiten"/>。[[1687年]]、[[1691年]]にロシアに通商を求める使節を派遣し、[[1694年]]、[[1697年]]には貿易の継続を要請した<ref>佐口透『ロシアとアジア草原』(ユーラシア文化史選書, 吉川弘文館, 1966年)、77頁</ref>。


カザフ・ハン国は[[ジュンガル]](カルムィク)の侵入に苦しみ、[[1710年]]と[[1713年]]の侵入は[[カザフ]]に深刻な被害をもたらした<ref name="pg">プジョル『カザフスタン』、56-57頁</ref>。1710年に[[クリルタイ]]を招集し、[[キルギス人]]、[[カラカルパク人]]の協力も得てジュンガルへの反撃を試みた。翌[[1711年]]にカザフ連合軍はジュンガルに勝利する。
カザフ・ハン国は[[ジュンガル]](カルムィク)の侵入に苦しみ、[[1710年]]と[[1713年]]の侵入は[[カザフ人|カザフ]]に深刻な被害をもたらした<ref name="pg">プジョル『カザフスタン』、56-57頁</ref>。1710年に[[クリルタイ]]を招集し、[[キルギス人]]、[[カラカルパク人]]の協力も得てジュンガルへの反撃を試みた。翌[[1711年]]にカザフ連合軍はジュンガルに勝利する。


1718年春のアヤコズの戦いでは、ジュンガルに部族間の不和を利用され、敗北した<ref name="pg"/>。同年にタウケは没した後、カザフの[[カザフ#ジュズ(部族連合体)|ジュズ]](部族連合)は抗争を再開する<ref name="pg"/>。タウケの存命中にすでに[[小ジュズ]]の一部がカイプ・ハンに従って独立していたが<ref name="jiten"/>、タウケの死後はそれぞれのジュズが独自にハンを選出しカザフ草原に複数のハンが現れた<ref>野田『露清帝国とカザフ=ハン国』、46頁</ref>。
1718年春のアヤコズの戦いでは、ジュンガルに部族間の不和を利用され、敗北した<ref name="pg"/>。同年にタウケは没した後、カザフの[[カザフ#ジュズ(部族連合体)|ジュズ]](部族連合)は抗争を再開する<ref name="pg"/>。タウケの存命中にすでに[[小ジュズ]]の一部がカイプ・ハンに従って独立していたが<ref name="jiten"/>、タウケの死後はそれぞれのジュズが独自にハンを選出しカザフ草原に複数のハンが現れた<ref>野田『露清帝国とカザフ=ハン国』、46頁</ref>。


== 法の編纂 ==
== 法の編纂 ==

2021年6月28日 (月) 21:36時点における最新版

タウケカザフ語: Тәуке1652年 - 1718年)は、カザフ・ハン国の14代目の君主(ハン)である(在位:1680年? -1718年?)。13代目のハンのジャンギルの子で、タウケはカザフ・ハン国の建国者ジャニベク・ハーンの来孫(5世孫)にあたる。法制度の整備と部族の統一によってカザフ草原に安定をもたらし、「偉大なタウケ」と讃えられた[1]

生涯[編集]

タウケはヤシに居住し、近郊のキュルトベの丘で有力なビー(部族の指導者)と協議して国内を統治した。17世紀末からロシア帝国に頻繁に使者を派遣し、ロシアとの外交関係の構築に成功した[1]1687年1691年にロシアに通商を求める使節を派遣し、1694年1697年には貿易の継続を要請した[2]

カザフ・ハン国はジュンガル(カルムィク)の侵入に苦しみ、1710年1713年の侵入はカザフに深刻な被害をもたらした[3]。1710年にクリルタイを招集し、キルギス人カラカルパク人の協力も得てジュンガルへの反撃を試みた。翌1711年にカザフ連合軍はジュンガルに勝利する。

1718年春のアヤコズの戦いでは、ジュンガルに部族間の不和を利用され、敗北した[3]。同年にタウケは没した後、カザフのジュズ(部族連合)は抗争を再開する[3]。タウケの存命中にすでに小ジュズの一部がカイプ・ハンに従って独立していたが[1]、タウケの死後はそれぞれのジュズが独自にハンを選出しカザフ草原に複数のハンが現れた[4]

法の編纂[編集]

17世紀末から18世紀初頭にかけてカザフの慣習法をまとめ、「ジュティ・ジャルグ(7つの法典)」として編纂した。ジュティ・ジャルグには土地や財産を巡る争い、婚姻、刑罰が規定されていた。ジュティ・ジャルグはタウケ法典とも呼ばれ、モンゴルオイラトの成文法の影響を受けていたとも言われる[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 野田「タウケ・ハン」『中央ユーラシアを知る事典』、313-314頁
  2. ^ 佐口透『ロシアとアジア草原』(ユーラシア文化史選書, 吉川弘文館, 1966年)、77頁
  3. ^ a b c プジョル『カザフスタン』、56-57頁
  4. ^ 野田『露清帝国とカザフ=ハン国』、46頁

参考文献[編集]

  • 野田仁「タウケ・ハン」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
  • 野田仁『露清帝国とカザフ=ハン国』(東京大学出版会, 2011年3月)
  • カトリーヌ・プジョル『カザフスタン』(宇山智彦、須田将訳, 文庫クセジュ, 白水社, 2005年2月)
  • 『中央ユーラシアを知る事典』564-565頁収録の系図(平凡社, 2005年4月)