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「アブル=ガーズィー」の版間の差分

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[[1621年]]に父のアラブ・ムハンマドが殺害された後、兄のイスファンディヤールと共に反乱を鎮圧するが、やがて兄と不仲になり国外に脱した<ref name="honda">本田「アブル・ガージー・バハドゥル・ハン」『アジア歴史事典』1巻、73頁</ref><ref>江上『中央アジア史』、511頁</ref>。[[ジャーン朝]][[ブハラ・ハン国]]の支配下にあった[[サマルカンド]]に逃れ、[[1626年]]に[[カザフ・ハン国]]の支配下にあった[[タシュケント]]に移り、同地で2年を過ごした<ref name="cjiten">堀川「アブル・ガーズィー」『中央ユーラシアを知る事典』、20頁</ref>。[[1629年]]より[[イラン]]の[[サファヴィー朝]]に送られ、[[エスファハーン]]に約10年滞在した<ref name="cjiten"/>。イランから脱出した後に[[オイラト]](カルムィク)の宮廷を訪れ、この地でアブル=ガーズィーは[[モンゴル]]の伝承を学んだ<ref name="honda"/><ref name="cjiten"/>。
[[1621年]]に父のアラブ・ムハンマドが殺害された後、兄のイスファンディヤールと共に反乱を鎮圧するが、やがて兄と不仲になり国外に脱した<ref name="honda">本田「アブル・ガージー・バハドゥル・ハン」『アジア歴史事典』1巻、73頁</ref><ref>江上『中央アジア史』、511頁</ref>。[[ジャーン朝]][[ブハラ・ハン国]]の支配下にあった[[サマルカンド]]に逃れ、[[1626年]]に[[カザフ・ハン国]]の支配下にあった[[タシュケント]]に移り、同地で2年を過ごした<ref name="cjiten">堀川「アブル・ガーズィー」『中央ユーラシアを知る事典』、20頁</ref>。[[1629年]]より[[イラン]]の[[サファヴィー朝]]に送られ、[[エスファハーン]]に約10年滞在した<ref name="cjiten"/>。イランから脱出した後に[[オイラト]](カルムィク)の宮廷を訪れ、この地でアブル=ガーズィーは[[モンゴル]]の伝承を学んだ<ref name="honda"/><ref name="cjiten"/>。


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[[1643年]]、イスファンディヤールが没した後にハンに擁立される。[[1645年]]にアブル=ガーズィーは[[トルクメン人]]を虐殺し<ref name="bar247">バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、247頁</ref>、[[ウズベク人|ウズベク]]出身の軍事貴族([[アミール]])を登用して国内を安定させる<ref name="horikawa169170">堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、169-170頁</ref>。同年、ヒヴァの南に現在の[[ウルゲンチ]]を建設した。


[[ロシア帝国]]などの近隣の国家と通交し、その一方でトルクメンやジュンガルなどの遊牧勢力を攻撃した。[[1655年]]からは7度にわたってブハラの[[ジャーン朝]]に遠征する。1663年に息子のアヌーシャに譲位し、同年に没した<ref name="cjiten"/>。
[[ロシア帝国]]などの近隣の国家と通交し、その一方でトルクメンやジュンガルなどの遊牧勢力を攻撃した。[[1655年]]からは7度にわたってブハラの[[ジャーン朝]]に遠征する。1663年に息子のアヌーシャに譲位し、同年に没した<ref name="cjiten"/>。

2021年6月29日 (火) 11:18時点における版

アブル=ガーズィーの肖像画

アブル=ガーズィーウズベク語: Abulgʻozi Bahodirxon1603年 - 1663年3月[1])は、ヒヴァ・ハン国の15代目の君主(ハン)である(在位:1643年 - 1663年)。12代目のハン・アラブ・ムハンマドの子にあたる。

生涯

幼少期を首都のクフナ・ウルゲンチ(旧ウルゲンチ)の宮廷で過ごした。成長後、カースや旧ウルゲンチの知事を務めた[2]

1621年に父のアラブ・ムハンマドが殺害された後、兄のイスファンディヤールと共に反乱を鎮圧するが、やがて兄と不仲になり国外に脱した[3][4]ジャーン朝ブハラ・ハン国の支配下にあったサマルカンドに逃れ、1626年カザフ・ハン国の支配下にあったタシュケントに移り、同地で2年を過ごした[5]1629年よりイランサファヴィー朝に送られ、エスファハーンに約10年滞在した[5]。イランから脱出した後にオイラト(カルムィク)の宮廷を訪れ、この地でアブル=ガーズィーはモンゴルの伝承を学んだ[3][5]

1643年、イスファンディヤールが没した後にハンに擁立される。1645年にアブル=ガーズィーはトルクメン人を虐殺し[6]ウズベク出身の軍事貴族(アミール)を登用して国内を安定させる[7]。同年、ヒヴァの南に現在のウルゲンチを建設した。

ロシア帝国などの近隣の国家と通交し、その一方でトルクメンやジュンガルなどの遊牧勢力を攻撃した。1655年からは7度にわたってブハラのジャーン朝に遠征する。1663年に息子のアヌーシャに譲位し、同年に没した[5]

アブル=ガーズィーの墓石は、ヒヴァイチャン・カラ内のパフラワーン・マフムード廟に置かれている[8]

文化事業

アブル=ガーズィーは即位前の国外の遍歴の中で歴史を学び[5][9]、イスファハーンで過ごした10年の間に高度の教養を得た[2][6]アラビア語ペルシア語も解する人物であり[5]チャガタイ語で書いた自著をペルシア語に翻訳しようと試みた[6]

1659年にアブル=ガーズィーは『オグズ・ナーメ』『集史』などの史書を元に[3][9]、チャガタイ語による歴史書『トルクメンの系譜』を著した。史書と自身の記憶を元にした著作である[3]、自身の祖先であるジョチの一族について記した『テュルクの系譜』を書き上げる前にアブル=ガーズィーは没したが、1665年に息子アヌーシャによって『テュルクの系譜』は完成した[5]。いずれの本もアブル=ガーズィーの意向によって平易な言葉で記述されている[10]。彼が著した2冊の史書は、ウズベク史の研究において重要な史料とされており[9]、ヨーロッパでは18世紀から参照されていた[2]

家族

父母

  • 父:アラブ・ムハンマド

兄弟

  • 長兄:イスファンディヤール(在位:1622年/23年 - 1641年/42年
  • ハバシュ(在位:1621年 - 1622年/23年)
  • イルバルス(在位:1621年 - 1622年/23年)

  • アヌーシャ

脚注

  1. ^ セミョノフ「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』、163頁
  2. ^ a b c 久保「アブル・ガーズィー」『岩波イスラーム辞典』、62頁
  3. ^ a b c d 本田「アブル・ガージー・バハドゥル・ハン」『アジア歴史事典』1巻、73頁
  4. ^ 江上『中央アジア史』、511頁
  5. ^ a b c d e f g 堀川「アブル・ガーズィー」『中央ユーラシアを知る事典』、20頁
  6. ^ a b c バルトリド『トルキスタン文化史』1巻、247頁
  7. ^ 堀川「民族社会の形成」『中央アジア史』、169-170頁
  8. ^ 『シルクロード事典』(前嶋信次、加藤九祚共編、芙蓉書房、1975年1月)、266-267頁
  9. ^ a b c 江上『中央アジア史』、512頁
  10. ^ セミョノフ「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』、164-165頁

参考文献

  • 江上波夫『中央アジア史』(世界各国史, 山川出版社, 1987年1月)
  • 久保一之「アブル・ガーズィー」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • 堀川徹「民族社会の形成」『中央アジア史』収録(竺沙雅章監修、間野英二責任編集, アジアの歴史と文化8, 同朋舎, 1999年4月)
  • 堀川徹「アブル・ガーズィー」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)
  • 本田実信「アブル・ガージー・バハドゥル・ハン」『アジア歴史事典』1巻収録(平凡社, 1959年)
  • A.A.セミョノフほか「チムール以降のウズベキスタン史」『アイハヌム 2009』収録(加藤九祚編訳, 東海大学出版会, 2009年10月)
  • V.V.バルトリド『トルキスタン文化史』1巻(小松久男監訳, 東洋文庫, 平凡社, 2011年2月)