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「ムルタザ」の版間の差分

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シビル・ハン国の君主であった{{仮リンク|イバク|en|Ibak Khan}}の子。[[1495年]]頃に父が死去するとその後継者となったが、君主位はムルタザの{{仮リンク|シバン家|ru|Шибаниды}}と対立していた{{仮リンク|タイブガ家|ru|Шибаниды}}の{{仮リンク|マムク|en|Mamuq of Kazan}}の手に渡った。
シビル・ハン国の君主であった{{仮リンク|イバク|en|Ibak Khan}}の子。[[1495年]]頃に父が死去するとその後継者となったが、君主位はムルタザの{{仮リンク|シバン家|ru|Шибаниды}}と対立していた{{仮リンク|タイブガ家|ru|Шибаниды}}の{{仮リンク|マムク|en|Mamuq of Kazan}}の手に渡った。


ムルタザの代に[[チュメニ州|チュメニ]]に居住していた[[ウズベク]]は、[[ティムール朝]]の衰退に乗じて勢力を拡大した[[オイラト|カルムイク]]から、あるいは[[北元|モンゴル]]からの圧迫を受けて[[マー・ワラー・アンナフル]]に移住した。その結果、チュメニに残ったウズベクはごく一部となった。
ムルタザの代に[[チュメニ州|チュメニ]]に居住していた[[ウズベク人|ウズベク]]は、[[ティムール朝]]の衰退に乗じて勢力を拡大した[[オイラト|カルムイク]]から、あるいは[[北元|モンゴル]]からの圧迫を受けて[[マー・ワラー・アンナフル]]に移住した。その結果、チュメニに残ったウズベクはごく一部となった。


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2021年6月29日 (火) 11:19時点における版

ムルタザタタール語: مرتضى, ラテン文字転写: Murtaza, 生年不詳 - 1565年)は、シビル・ハン国の王族。

生涯

シビル・ハン国の君主であったイバク英語版の子。1495年頃に父が死去するとその後継者となったが、君主位はムルタザのシバン家ロシア語版と対立していたタイブガ家ロシア語版マムク英語版の手に渡った。

ムルタザの代にチュメニに居住していたウズベクは、ティムール朝の衰退に乗じて勢力を拡大したカルムイクから、あるいはモンゴルからの圧迫を受けてマー・ワラー・アンナフルに移住した。その結果、チュメニに残ったウズベクはごく一部となった。

1556年頃、ムルタザの子のクチュム英語版がシビルの君主であったヤーディガルスペイン語版(マムクの孫)を打倒して[1]君主位をタイブガ家から奪取した[2]。ムルタザ自身は1565年に死去したとされる。

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ). シビル・ハン国. コトバンクより2020年7月11日閲覧
  2. ^ Armstrong 2017

参考書籍