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「盧楚」の版間の差分

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司空掾の盧景祚([[盧弁]]・[[盧光]]の兄)の孫にあたる。若くして学問があったが、どもりがちで語り口は難解であった。[[大業]]年間、尚書右司郎となった。[[煬帝]]が江都に行幸すると、盧楚は[[洛陽|東都]]に残ったが、不法を行う官僚を糾弾してやまず、遠慮会釈がなかった。
司空掾の盧景祚([[盧弁]]・[[盧光]]の兄)の孫にあたる。若くして学問があったが、どもりがちで語り口は難解であった。[[大業]]年間、尚書右司郎となった。[[煬帝]]が江都に行幸すると、盧楚は[[洛陽|東都]]に残ったが、不法を行う官僚を糾弾してやまず、遠慮会釈がなかった。


越王[[恭帝トウ|楊侗]]が[[皇帝]]を称すると、盧楚は内史令・左備身将軍・摂尚書左丞・右光禄大夫となり、涿郡公に封じられた。[[元文都]]とともに[[王世充]]の処断を謀議したが、その計画は王世充に察知された。王世充が起兵し、太陽門を攻撃した。武衛将軍の皇甫無逸が関を斬り抜けて脱出するよう、盧楚に同道を求めたが、盧楚は元文都に義理立てして、宮城を出ようとしなかった。王世充の兵が宮城に侵入すると、盧楚は太官署に立てこもった。兵に捕らえられて、王世充のもとに送られ、斬殺されて遺体はバラバラにされた。
越王[[恭帝|楊侗]]が[[皇帝]]を称すると、盧楚は内史令・左備身将軍・摂尚書左丞・右光禄大夫となり、涿郡公に封じられた。[[元文都]]とともに[[王世充]]の処断を謀議したが、その計画は王世充に察知された。王世充が起兵し、太陽門を攻撃した。武衛将軍の皇甫無逸が関を斬り抜けて脱出するよう、盧楚に同道を求めたが、盧楚は元文都に義理立てして、宮城を出ようとしなかった。王世充の兵が宮城に侵入すると、盧楚は太官署に立てこもった。兵に捕らえられて、王世充のもとに送られ、斬殺されて遺体はバラバラにされた。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2021年6月30日 (水) 08:21時点における最新版

盧 楚(ろ そ、生年不詳 - 618年)は、代の人物。本貫范陽郡涿県

経歴[編集]

司空掾の盧景祚(盧弁盧光の兄)の孫にあたる。若くして学問があったが、どもりがちで語り口は難解であった。大業年間、尚書右司郎となった。煬帝が江都に行幸すると、盧楚は東都に残ったが、不法を行う官僚を糾弾してやまず、遠慮会釈がなかった。

越王楊侗皇帝を称すると、盧楚は内史令・左備身将軍・摂尚書左丞・右光禄大夫となり、涿郡公に封じられた。元文都とともに王世充の処断を謀議したが、その計画は王世充に察知された。王世充が起兵し、太陽門を攻撃した。武衛将軍の皇甫無逸が関を斬り抜けて脱出するよう、盧楚に同道を求めたが、盧楚は元文都に義理立てして、宮城を出ようとしなかった。王世充の兵が宮城に侵入すると、盧楚は太官署に立てこもった。兵に捕らえられて、王世充のもとに送られ、斬殺されて遺体はバラバラにされた。

伝記資料[編集]