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「呉喜」の版間の差分

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はじめ領軍府の白衣の吏をつとめた。若くして書を知り、領軍将軍[[沈演之]]の命を受けて起居注を写し、写し終えると内容をほぼみな暗誦することができた。あるとき沈演之が上表文を作ったが、奏上しないうちに原文を失ったことがあった。呉喜は一度原文を見ていたため、即座に書いて見せると、抜け落ちたところがなく、沈演之を感心させた。『[[史記]]』や『[[漢書]]』を渉猟して、歴史に通じた。沈演之の門生の朱重民が主書として入朝すると、呉喜は推薦を受けて主書書史となり、主図令史に進んだ。[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が図書を求めたとき、呉喜が巻子を開いて進上したため、文帝の怒りを買って外任に出された。
はじめ領軍府の白衣の吏をつとめた。若くして書を知り、領軍将軍[[沈演之]]の命を受けて起居注を写し、写し終えると内容をほぼみな暗誦することができた。あるとき沈演之が上表文を作ったが、奏上しないうちに原文を失ったことがあった。呉喜は一度原文を見ていたため、即座に書いて見せると、抜け落ちたところがなく、沈演之を感心させた。『[[史記]]』や『[[漢書]]』を渉猟して、歴史に通じた。沈演之の門生の朱重民が主書として入朝すると、呉喜は推薦を受けて主書書史となり、主図令史に進んだ。[[文帝 (南朝宋)|文帝]]が図書を求めたとき、呉喜が巻子を開いて進上したため、文帝の怒りを買って外任に出された。


[[452年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]29年)、司馬黒石・夏侯方進らが西陽で少数民族を扇動して反乱を起こすと、呉喜は[[沈慶之]]の下で反乱の鎮圧にあたった。[[453年]](元嘉30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が文帝を殺害して帝を称し、[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]が巴口で起兵したが、呉喜はたまたま病にかかり、沈慶之の下で従軍することができなかった。劉劭の乱が平定されると、呉喜は孝武帝の下で主書となった。抜擢されて諸王の学官令となり、左右尚方令をつとめた。河東郡太守に任じられ、殿中御史となった。[[大明]]年間、[[イ県|黟県]]と[[歙県]]の亡命者数千人が起兵して、県邑を攻め落とし、官長を殺害する事件が起こった。豫章王[[劉子尚]]が会稽から3000人を送って討伐にあたらせたが、敗北した。孝武帝が呉喜に数十人を与えて2県に派遣すると、呉喜は亡命者たちを説得して降伏させた。
[[452年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]29年)、司馬黒石・夏侯方進らが西陽で少数民族を扇動して反乱を起こすと、呉喜は[[沈慶之]]の下で反乱の鎮圧にあたった。[[453年]](元嘉30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が文帝を殺害して帝を称し、[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]が巴口で起兵したが、呉喜はたまたま病にかかり、沈慶之の下で従軍することができなかった。劉劭の乱が平定されると、呉喜は孝武帝の下で主書となった。抜擢されて諸王の学官令となり、左右尚方令をつとめた。河東郡太守に任じられ、殿中御史となった。[[大明]]年間、[[黟県]]と[[歙県]]の亡命者数千人が起兵して、県邑を攻め落とし、官長を殺害する事件が起こった。豫章王[[劉子尚]]が会稽から3000人を送って討伐にあたらせたが、敗北した。孝武帝が呉喜に数十人を与えて2県に派遣すると、呉喜は亡命者たちを説得して降伏させた。


[[466年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年)、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]の即位に対抗する反乱が各地で起こると、呉喜は仮の建武将軍となり、羽林の勇士を与えられて三呉の反乱勢力を討った。戦功を挙げて、歩兵校尉となり、竟陵県侯に封じられた。東方が平定されると、さらに南方に転戦して、輔国将軍・[[尋陽郡]][[太守]]に任じられた。南方の反乱勢力が敗走すると、呉喜は追撃して[[荊州]]を平定し、前軍将軍の号を受けた。[[468年]](泰始4年)、東興県侯に改封された。使持節・督[[交州]][[広州]]之鬱林寧浦二郡諸軍事・輔国将軍・交州[[刺史]]となったが、赴任しなかった。右軍将軍・[[淮陵郡]]太守に任じられ、仮の輔師将軍となり、太子左衛率を兼ねた。
[[466年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年)、[[明帝 (南朝宋)|明帝]]の即位に対抗する反乱が各地で起こると、呉喜は仮の建武将軍となり、羽林の勇士を与えられて三呉の反乱勢力を討った。戦功を挙げて、歩兵校尉となり、竟陵県侯に封じられた。東方が平定されると、さらに南方に転戦して、輔国将軍・[[尋陽郡]][[太守]]に任じられた。南方の反乱勢力が敗走すると、呉喜は追撃して[[荊州]]を平定し、前軍将軍の号を受けた。[[468年]](泰始4年)、東興県侯に改封された。使持節・督[[交州]][[広州]]之鬱林寧浦二郡諸軍事・輔国将軍・交州[[刺史]]となったが、赴任しなかった。右軍将軍・[[淮陵郡]]太守に任じられ、仮の輔師将軍となり、太子左衛率を兼ねた。

2021年7月3日 (土) 01:37時点における版

呉喜(ご き、427年 - 471年)は、南朝宋官僚軍人。もとの名は喜公。本貫呉興郡臨安県

経歴

はじめ領軍府の白衣の吏をつとめた。若くして書を知り、領軍将軍沈演之の命を受けて起居注を写し、写し終えると内容をほぼみな暗誦することができた。あるとき沈演之が上表文を作ったが、奏上しないうちに原文を失ったことがあった。呉喜は一度原文を見ていたため、即座に書いて見せると、抜け落ちたところがなく、沈演之を感心させた。『史記』や『漢書』を渉猟して、歴史に通じた。沈演之の門生の朱重民が主書として入朝すると、呉喜は推薦を受けて主書書史となり、主図令史に進んだ。文帝が図書を求めたとき、呉喜が巻子を開いて進上したため、文帝の怒りを買って外任に出された。

452年元嘉29年)、司馬黒石・夏侯方進らが西陽で少数民族を扇動して反乱を起こすと、呉喜は沈慶之の下で反乱の鎮圧にあたった。453年(元嘉30年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称し、孝武帝が巴口で起兵したが、呉喜はたまたま病にかかり、沈慶之の下で従軍することができなかった。劉劭の乱が平定されると、呉喜は孝武帝の下で主書となった。抜擢されて諸王の学官令となり、左右尚方令をつとめた。河東郡太守に任じられ、殿中御史となった。大明年間、黟県歙県の亡命者数千人が起兵して、県邑を攻め落とし、官長を殺害する事件が起こった。豫章王劉子尚が会稽から3000人を送って討伐にあたらせたが、敗北した。孝武帝が呉喜に数十人を与えて2県に派遣すると、呉喜は亡命者たちを説得して降伏させた。

466年泰始2年)、明帝の即位に対抗する反乱が各地で起こると、呉喜は仮の建武将軍となり、羽林の勇士を与えられて三呉の反乱勢力を討った。戦功を挙げて、歩兵校尉となり、竟陵県侯に封じられた。東方が平定されると、さらに南方に転戦して、輔国将軍・尋陽郡太守に任じられた。南方の反乱勢力が敗走すると、呉喜は追撃して荊州を平定し、前軍将軍の号を受けた。468年(泰始4年)、東興県侯に改封された。使持節・督交州広州之鬱林寧浦二郡諸軍事・輔国将軍・交州刺史となったが、赴任しなかった。右軍将軍・淮陵郡太守に任じられ、仮の輔師将軍となり、太子左衛率を兼ねた。

469年(泰始5年)、驍騎将軍の号を受けた。北魏豫州に進攻してくると、呉喜は諸軍を率いて討って出て、荊亭で魏軍を破った。北魏の長社公が逃走すると、戍主の帛乞奴が降伏してきた。呉喜は凱旋すると、左衛将軍の号を兼ねた。470年(泰始6年)、また軍を率いて豫州に入り、魏軍を迎撃して、節・督豫州諸軍事の任を加えられ、仮の冠軍将軍となった。471年(泰始7年)、建康に帰還した。

ときに寿寂之が処断されると、呉喜は恐れを抱いて、中散大夫として隠退したいと願い出た。明帝が病床に伏すようになると、呉喜は幼主におとなしく従う人物ではないとみなされ、将来を不安視する明帝の命で処刑された。享年は45。

子の呉徽民が爵位を嗣いだが、が建てられると、封国は除かれた。

伝記資料