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== 経歴 ==
== 経歴 ==
給事中の江纂(江逌の子)の子として生まれた。若くして父を失い、弟妹7人の養育に力をそそいだ。はじめ[[劉穆之]]の下で丹陽前軍府参軍となった。[[劉裕]]が[[徐州]]刺史となると、秉之はその下で徐州主簿に任じられた。南朝宋が建てられると世子中軍参軍となった。[[420年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]元年)、劉裕が[[皇帝]]に即位すると、秉之は員外散騎侍郎となり、太子詹事丞に任じられた。[[422年]](永初3年)、[[少帝 (南朝宋)|少帝]]が即位すると、秉之は入朝して尚書都官郎となった。次いで[[リツ陽市|永世]]県令や[[呉興区|烏程]]県令として出向して、善政で知られた。後に建康県令として召還された。[[430年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]7年)、[[殷景仁]]が領軍将軍となると、秉之はその下で司馬となった。また[[柯橋区|山陰]]県令として出向し、治績を挙げて[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]に任じられた。
給事中の江纂(江逌の子)の子として生まれた。若くして父を失い、弟妹7人の養育に力をそそいだ。はじめ[[劉穆之]]の下で丹陽前軍府参軍となった。[[劉裕]]が[[徐州]]刺史となると、秉之はその下で徐州主簿に任じられた。南朝宋が建てられると世子中軍参軍となった。[[420年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]元年)、劉裕が[[皇帝]]に即位すると、秉之は員外散騎侍郎となり、太子詹事丞に任じられた。[[422年]](永初3年)、[[少帝 (南朝宋)|少帝]]が即位すると、秉之は入朝して尚書都官郎となった。次いで[[陽市|永世]]県令や[[呉興区|烏程]]県令として出向して、善政で知られた。後に建康県令として召還された。[[430年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]7年)、[[殷景仁]]が領軍将軍となると、秉之はその下で司馬となった。また[[柯橋区|山陰]]県令として出向し、治績を挙げて[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]に任じられた。


[[435年]](元嘉12年)、[[臨海郡]]太守に転じた。秉之は得られた秩禄を全て親族や友人に分け与えたため、その妻子は常に飢寒に瀕していた。農地経営を勧める者があったが、秉之は官人として利益を争うことを拒否した。[[440年]](元嘉17年)、死去した。享年は60。
[[435年]](元嘉12年)、[[臨海郡]]太守に転じた。秉之は得られた秩禄を全て親族や友人に分け与えたため、その妻子は常に飢寒に瀕していた。農地経営を勧める者があったが、秉之は官人として利益を争うことを拒否した。[[440年]](元嘉17年)、死去した。享年は60。

2021年7月4日 (日) 13:04時点における版

江 秉之(こう へいし、381年 - 440年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚は玄叔。本貫済陽郡考城県

経歴

給事中の江纂(江逌の子)の子として生まれた。若くして父を失い、弟妹7人の養育に力をそそいだ。はじめ劉穆之の下で丹陽前軍府参軍となった。劉裕徐州刺史となると、秉之はその下で徐州主簿に任じられた。南朝宋が建てられると世子中軍参軍となった。420年永初元年)、劉裕が皇帝に即位すると、秉之は員外散騎侍郎となり、太子詹事丞に任じられた。422年(永初3年)、少帝が即位すると、秉之は入朝して尚書都官郎となった。次いで永世県令や烏程県令として出向して、善政で知られた。後に建康県令として召還された。430年元嘉7年)、殷景仁が領軍将軍となると、秉之はその下で司馬となった。また山陰県令として出向し、治績を挙げて新安郡太守に任じられた。

435年(元嘉12年)、臨海郡太守に転じた。秉之は得られた秩禄を全て親族や友人に分け与えたため、その妻子は常に飢寒に瀕していた。農地経営を勧める者があったが、秉之は官人として利益を争うことを拒否した。440年(元嘉17年)、死去した。享年は60。

子に江徽(江謐の父)があり、尚書都官郎・呉県県令となったが、徐湛之の党与として劉劭に殺害された。

伝記資料