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== 経歴 ==
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東晋の太子左衛率の[[徐バク (東晋)|徐邈]]([[徐広]]の兄)の子として生まれた。[[隆安]]末年に[[太学]]博士となった。[[402年]]([[元興 (東晋)|元興]]元年)、[[桓玄]]が政権を掌握すると、徐豁は糾弾を受けて免官された。[[404年]](元興3年)、桓玄が敗れると、徐豁は秘書郎となった。尚書倉部郎となり、[[何無忌]]の下で右軍功曹をつとめ、鎮南参軍に転じた。入朝して祠部に入り、[[リツ陽市|永世県]]令・建武司馬・中軍参軍・尚書左丞を歴任した。宋の[[永初 (南朝宋)|永初]]初年、[[徐羨之]]の下で鎮軍司馬となり、入朝して尚書左丞となり、[[紹興市|山陰県]]令をつとめた。
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2021年7月4日 (日) 13:04時点における版

徐豁(じょ かつ、378年 - 428年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚は万同。本貫東莞郡姑幕県

経歴

東晋の太子左衛率の徐邈徐広の兄)の子として生まれた。隆安末年に太学博士となった。402年元興元年)、桓玄が政権を掌握すると、徐豁は糾弾を受けて免官された。404年(元興3年)、桓玄が敗れると、徐豁は秘書郎となった。尚書倉部郎となり、何無忌の下で右軍功曹をつとめ、鎮南参軍に転じた。入朝して祠部に入り、永世県令・建武司馬・中軍参軍・尚書左丞を歴任した。宋の永初初年、徐羨之の下で鎮軍司馬となり、入朝して尚書左丞となり、山陰県令をつとめた。

元嘉初年、始興郡太守となった。426年(元嘉3年)、内政の三事について上奏した。文帝に良守と評されて、賞与を受けた。428年(元嘉5年)、持節・都督広交二州諸軍事・寧遠将軍・平越中郎将・広州刺史に任じられたが、受けないうちに死去した。享年は51。

伝記資料